2021
09.12

失敗学の研究者が見た、日本人の「ゼロリスク」信奉

国際ニュースまとめ

<「信者」を減らさないと、日本の将来は暗い。東京五輪を機に、チャンスとリスクを議論して判断できる日本へと変わるべきだ> 人間は何かを行う前に、「チャンス」と「リスク」を秤(はかり)に掛けて判断する。東京五輪では、選手が国民に感動を与えることがチャンスで、試合場の選手団や観客から新型コロナウイルスが広がるのがリスクである。 しかし、テレビや新聞はリスクだけを報道し、秤に掛けるような議論は進まなかった。結局、時間切れで中止にはならず、IOC(国際オリンピック委員会)にいいように引き込まれて大会は始まった。 五輪開催が失敗だったか成功だったかは、閉会式まで分からなかった。たまたま日本の金メダルが予想以上に多かったから、JNNの世論調査では「開催してよかった」「どちらかといえばよかった」と思う人が61%になった。 もしも予想以上に少なかったら、五輪はコロナ第5波の主因として失敗の烙印を押され、自民党は今秋の総選挙で大敗しただろう。 筆者らは、20年近く「失敗学」と称して多くの失敗を分析してきた。そこで分かったことだが、日本人の中には感情的な「ゼロリスク」信者が多く存在する。ゼロリスクは「安心」とも言い換えられる。安心の達成レベルは人それぞれで異なり、いくら説明しても絶対に安心できない人もいる。 福島第一原発事故では「放射線は年間1ミリシーベルトでもイヤだ」という人が多く、「自然放射線の2.1ミリシーベルトよりも少ないですよ」と言っても議論にならなかった。ゼロリスクは信念であり、信者に秤は要らない。 東京五輪を中止寸前まで追い込んだ最大の力は、このゼロリスクである。議論は要らない、イヤなものはイヤなのである。でもこの信者を減らさないと、日本の将来は暗い。 ANNEGRET HILSE-REUTERS 五輪の失敗は「よくある失敗」 昨年10月、東京大学の筆者のオンライン講義での出来事だが、招聘した外部講師が「日本人の1年間の死亡者の130万人に比べれば、これまでのコロナ死亡者数はたかだか1600人だから、インフルエンザ相当だよね」と口を滑らせたら、直後にチャットで炎上した。 大学では原発と軍事の議論はタブーだが、それに感染症が加わった。ゼロリスク信者にとっては、死亡者は過去も将来もゼロでなければならない。今年になってもワクチン忌避という形で、ゼロリスク信者の学生たちが顕在化している。 筆者のような理系人間は、大学入学当初の微積分でイプシロン-デルタ論法という解析を教わるが、そこで「ゼロに限りなく近いがゼロではない」という表現を身に付ける。この表現は「失敗学」では正しく、ゼロリスクはあり得ない。 ===== ISSEI KATO-REUTERS 労働災害を防ぐために「ゼロ災運動」を展開している企業も多いが、ゼロを業務目標にすると災害が起きても報告しないというズルが横行する。 タイタニック号はunsinkable(沈まない)と絶賛されたが、技術者は「最大で4水密区画で浸水しても沈没は免れる」としか言っていない。実際、氷山に衝突して6区画で浸水すると、設計どおりに沈没した。不沈神話はあり得ない。 東京五輪では、8年前の招致贈賄疑惑から、ロゴ盗用問題、新国立競技場計画の撤回、森喜朗組織委員会会長(当時)の女性蔑視発言、開会式直前の演出担当者辞任まで多くの失敗が目についた。でも、これらはマスコミが調査して責任を追及し、失敗を「なかったこと」として看過・隠匿したわけではない。 こうした失敗は「よくある」失敗である。過去の類似の失敗もデータ集(例えば筆者の『失敗百選』)から簡単に検索でき、優秀なブレーン(今なら自然言語を分析できるAIでもよい)がいれば事前に予想できる。 「失敗学」では滑った、転んだ、忘れた、遅れたの類を「つい、うっかり」の失敗と呼ぶが、従業員がそれで失敗しても会社は倒産しない。 一方で、想定外で発生確率は低いが、起きたら致命的になるという「まさか」の失敗もある。東日本大震災の巨大津波で誘発された福島第一原発事故がこの典型例だ。東京五輪開催で誘発された医療崩壊も、典型例になる可能性が高かった。 もしも有観客の会場でクラスターが生じ、家族感染で広がり、関東一円の感染者が一時期のニューヨーク並みに1日当たり約2万人で重症病床が満床になったら、政府転覆の暴動が起きていたかもしれない。ただ今回はそこまで深刻なレベルに至っていない。 自分の論理で判断すること 「まさか」の失敗は類似事例が過去のデータにないので、グーグル検索でなく、自分の脳で事故のシナリオを想定しないとならない。福島原発では「外部電源が30分以上喪失することはないと国が決めたから」と言い訳して、30分後のシナリオを事前に想定しておらず、この思考停止が損失を拡大した。 これから日本は五輪の経験を生かして、何を変革していけばよいのだろうか? まずは、自分の脳の中にチャンスとリスクの秤を用意して、自分の論理で判断することが大事だろう。 くれぐれもワイドショーであおられた話を簡単に信用して、リスクを過大評価してはいけない。また、議論した後で面倒になり、「何も変えない」という不作為を選ぶこともやめるべきである。 ===== LUCY NICHOLSON-REUTERS 明日からでよい。「隗(かい)より始めよ」で、身近なことから変革を始めていこう。 大学教員としては学生に、コロナに抗して大学に来て実験して論文を書くチャンスと、コロナに感染するリスクとを秤に掛けて、自分の力でやりたい方向へ進んでほしいと思う。筆者の研究室では、学生全員がリモートデスクトップのアプリを用いて、自宅から実験室のコンピューターやロボットを動かしている。 コロナでオンライン業務を強いられたが、そこで分かったことは日本のデジタル化の遅れだ。手っ取り早く「3密」を避ける方法は最新版のDX(デジタルトランスフォーメーション)で、若者はそれを事もなげに実行するから頼もしい。 東京五輪では国内外の観客がお金を落とさなかったので、大きな赤字が生まれた。しかし、これまでにコロナ対策で使った政府予算の43兆円に比べれば、赤字額は0.9兆円で2%にしかならず、致命的なリスクと見なすのは酷だ。 日本人選手はインタビューで、開催してチャンスの場を与えてくれた人々に感謝していた。彼らは国家の名誉ではなく、個人の自己発現を求めて戦ったのである。秤に掛けたらチャンスのほうが重かったと筆者は思う。 令和の時代は、何事も自分で考えて、自分で人生を切り開く力が見直されている。おかしなことは見過ごさずに変えていこう。 (※巨大スポーツイベントの未来、「傲慢」と「卑屈」が残した教訓、行き場のない不安と不満……本誌9月14日号「五輪後の日本」特集では、いくつもの側面から東京五輪を振り返る)

Source:Newsweek
失敗学の研究者が見た、日本人の「ゼロリスク」信奉