05.17
認知症の母に嘘をつき介護付きホームに入れた。そのことに未だに罪悪感を感じている。
アルツハイマー病と診断される前の母(右)と筆者(左)=2019年8月【合わせて読みたい】世界を徒歩で巡る壮大な企画。ピューリッツァー受賞米ジャーナリストが日本の田舎で驚いた「普通ではない」光景
「まだニューヨークに着かないの?」
アメリカ・フロリダのオーランド空港から車でホテルに向かう途中、母は私に尋ねた。
それは冗談で言ったのか、それとも本気だったのかーー。私には分からなかった。
時間はもうすぐ夜の9時を回ろうとしていた。1時間ほど前に飛行機で到着し、レンタカーの手続きを済ませ、今は夜の高速道路を走っているところだ。
私は母を介護付きホームに転居させようとしていた。
2021年9月、母はアルツハイマー病と診断された。8月に68歳になったばかりで、私も37歳になったところだった。新型コロナ蔓延のせいで、母には1年半会っておらず、孤立し痩せ細った姿を見た時には目を疑った。
2023年1月には、シャワーを浴びるのを忘れたり、簡単な食事を作ったり運転したりなどの日々の生活のタスクをこなす能力を失っていた。
母は自宅に留まることに固執していたが、私と兄が手配した在宅ケアを拒んだ。きっとそれが自立心や自己の喪失、そして記憶や自身の世話をする能力を徐々に奪っていく病気を受け入れることを意味するからだろう。
私たちは母の安全とウェルビーイングのために、新しい住居を探すという決断をしなければならなかった。でも、母が介護付きホームに引っ越すことに興味がないことは分かっていた。そこで私たちは、天気の良いフロリダに住む兄の近くで、すでに手配してある「居心地の良いマンション」で冬を過ごすのはどうかと提案した。
ーーー
その数日前、私は現在住んでいるオランダのアムステルダムから長いフライトを経て、時差ボケと不安と共にペンシルバニアの母の家に戻ってきた。荷造りを手伝うためだ。母は1カ月前に転倒して頭を打って以降、住み込みの介護ヘルパーを頼りにしていた。
「より息子の近くに住むためにフロリダに引っ越すの」
母は部屋にある小さなベージュのソファに座りながらヘルパーの女性に話した。
私は大きな箱を3つ買い、適当に物を詰め、リビングルームに重ねて置いた。この家は私の家ではないし、私はここで育ったわけでもないが、それでも「我が家」のように感じた。本棚には母の一生分の本が詰まっていた。どうやってこの本を運ぶのか、と母は何度も尋ねた。私は「後でどうにかしよう」となだめた。
母は時々、朝3時に私を起こした。すでに着替えを済ませ、「今すぐ空港に行くの?」と聞いてきた。その度に私は「まだ」だと伝えた。飛行機に乗り遅れることへの不安で母は眠れなかったが、実際に何が起こっているのかは理解していなかった。
私たちは空港まで送迎サービスを利用した。家を離れるとき、振り返ることはなかった。母に不安や事態の深刻さを感じさせず、ペンシルバニアからフロリダまで無事に送り届けるという使命に集中しすぎていたのだ。
あの母の家に足を踏み入れるのはあれが最後になるとは思っていもいなかった。その年の5月、私たちは母の家を売却した。
筆者の母=2022年7月、ペンシルバニア州の母の家で空港の保安検査で、母はそわそわし、混乱していた。私は子どもを手伝うかのように、母が靴を脱ぎ、バッグをトレイに入れ、時計を外すのを助けた。
隣同士の席を予約できなかったため、私は通路側に座り、母はその後ろの列の真ん中のシートに座った。数分おきに振り返ると、母は何度もハンドバッグの中身をかき分けていた。母の隣の席に座っていた男性は私の心配そうな視線に気づき、席を変わってくれた。
私は母の隣に座り、「大丈夫だよ。何度もチェックする必要はないよ」と囁いた。
母は頷いたがチェックし続けた。
ーーー
その夜チェックインしたホテルは、駐車場には巨大なトラックが何台も停まり、人里離れた場所にあるような感じがした。でも1泊するだけなのでどうでもよかった。
お腹は空いていなかったが、母が食べたいというので、私はUber Eatsでピザを注文した。母に何が食べたいのかと聞くと、パスタと答えた。
45分後、ドアをノックする音がした。
「パスタが来たよ」と私
「誰に?私はパスタなんていらないけど」と母
私の中で何かがぷつっと切れるのを感じた。
母が注文したものを忘れたから私は怒っていたのか…同じ質問を繰り返すから?それとも、こういう時に慰めてくれる母がもういないからだろうかーー。
ーーー
幼い頃、母はあまり養育的ではなく、私はよく自分が誤解されていると感じていた。でも年をとり20代半ばになると、何かが変わった。電話で私の生活について話すと、母は真剣に話を聞いてくれた。私がアドバイスを欲しいと思っていても母は何も言ってくれなかったが、それでも私は、次第に母に理解してもらえていると感じるようになった。
母は、私が憧れていた、優しく愛情深い母親ではなかった。控えめで、自分の感情を表に出したり話したりすることはなかった。でも勤勉で独立し、起業家精神にあふれ、誰の世話も必要としない女性だった。兄と私も自分のビジネスを営んでいるが、それは母が可能だと教えてくれたのだ。
2021年の診断以来、控えめだった母はより感情的になっていった。母が自分の身に起きていることを受け入れようとする葛藤を見るのは胸が張り裂けそうだったが、母が自分の感情を表現し、私と分かち合ってくれるようになったことで母をより身近に感じ、嬉しくも思った。
母親の70歳の誕生日を一緒に祝う筆者=2023年8月翌朝、ホテルで薄いコーヒーと乾いたベーグルの朝食を済ませ、施設へ向かった。施設の車道に入る時、入り口の看板から母の気をそらせようとしたが、失敗した。
「何これ?介護付きホーム?そんなの嫌」
私はパニックになったが、兄が温かく迎え入れてくれ、会話をそらしてくれた。
中に入ると、母のマンションの部屋に案内された。左に小さなキッチン、まっすぐ進んだところにはリビングルーム、右手にはバスルームと2つのベッドルームがあった。1部屋は母用、もう1部屋は私や他の姉妹が訪ねてきた時に泊まる用だ。まだ69歳の母親の住む場所がここになるとは誰も想像していなかったが、そこはもう母のものだった。
それから10日間、私はそこで母と一緒に暮らした。2人で食事に行き、朝はアクティビティのスケジュールをチェックし、それはまるで学校に通う子どもの送り迎えをするようだった。
入居時、母は幸せそうだった。私たちはペンシルバニアから送った3つの箱の荷解きをし、事前に兄が手配してくれていた家具を並べ替えた。一緒に箱をたたみ、ゴミ置き場まで運んだ。華やかな仕事ではないが、母が再び目的を持ったような生産性を感じていたのは分かった。
兄の41歳の誕生日のために、一緒に買い物もした。母はカードとスヌーピーのぬいぐるみを選んだ。兄が小さい頃スヌーピーのぬいぐるみを集めていたのを覚えていたのだろう。
カードにメッセージを書きながら、母は私を見上げ「これでいいのかな?」と尋ねた。
「うん。上手にできてるよ」と私は母を安心させた。
母が、私たちが「騙した」ことを完全に理解していたとしても、何も言ってくることはなかった。心の奥で、自分は助けが必要だと分かっていたのだろう。
ーーー
ついに、飛行機で帰る日がやって来た。
母は私を車まで送ると、いつも以上に抱きしめ、いつも以上に愛していると言ってくれた。
「ここでやっていけるかわからない」「帰らないでほしい…」
私は、母は安全な場所にいて、みんなが助けてくれること、きっと大丈夫だと約束した。食事時間とアクティビティのスケジュール、電話番号を明るい色の付箋に走り書きし、リビングルームのコルクボードに貼っておいた。
車で走り出し、高速道路に乗った途端、私は号泣したーー。
ーーー
再び母を訪問するために飛行機の中でこの文章を書きながら、これまでの経験を振り返ってみると、自分のしたことがたまに信じられなくなる。
でも後悔はしていない。私たちの役割が逆転し始め、母の娘から、より「親」に近い存在へとシフトしていくにつれ、「母親」になることがどれだけ大変かを垣間見ることができた。そして私は母同様、あまり養育的なタイプではないようだ。
母は最近アルツハイマー病や認知症などの専門ケア施設に移ったが、それまでの2年間、介護付きホームで暮らした。恵まれたことに、母は今でも24時間365日体制の介護が付いている。
今、母はアルツハイマー病の後期段階にあり、私はこの4年間、母が、そして私たち家族が経験してきたことを消化し始め、その重みを感じている。悲しくて、腹立たしくて、頭上に暗雲が付き纏っているような気がする。まだこの世に母はいるのに、私の中にはもういない。
母と一緒に経験したかったことが、まだたくさんあった。母としてだけでなく、ひとりの大人として、認知症になる前のその女性をもっと知りたかった。母の子ども時代のこと、私の幼少期のこと、娘が母親から聞きたい小さなことをもっと聞きたかった。例えば、「いつ閉経した?」とか、「40歳の自分に今なら何を伝える?」とか。
介護付きホームに移ってから、私は毎年3、4回母を訪ねた。でも何度訪れても、手にすることのできなかった思い出を埋め合わせることはできない。
ハフポストUS版の記事を翻訳・編集しました。
Source: HuffPost




