05.14
ピンポン外交50周年 当時15歳の女子選手が目にした中国の今昔と舞台裏
<15歳で訪中した米女子卓球選手が語る半世紀前の中国、そして緊迫する現在の両国関係にスポーツができること> 1971年4月、卓球のアメリカ代表チームに世界の目が注がれた。といっても、その実力が注目されたわけではない。3月下旬から日本で開催されていた世界卓球選手権の直後、期せずして中国に招かれたのだ。 米代表は4月10日に中国に入り、8日間にわたって滞在した。中華人民共和国が1949年に建国されて以来、アメリカ人として初めて訪問した彼らは大歓迎を受けた。 米代表は中国チームと交流試合を行い、政府の要人たちにも会った。彼らの訪問は米中が歩み寄るきっかけとなり、79年の国交正常化につながった。「ピンポン外交」と呼ばれるこの出来事は、スポーツが政治の壁を打ち破った事例として歴史に深く刻まれている。 2022年、北京五輪ボイコットの呼び掛け しかしピンポン外交50周年に当たる今年、米中関係は緊張状態にある。通商関係から人権問題、新型コロナウイルスの発生源をめぐる論争に至るまで対立点が山積みだ。スポーツが国家間の壁を打ち破るどころか、一部の米政治家は2022年に予定される北京冬季五輪のボイコットを呼び掛けている。 71年に中国を訪れた選手の1人、ジュディ・ボチェンスキーはオレゴン州に住む15歳だった。彼女はあのときのことを、今もはっきりと覚えている。 万里の長城には驚いた。どこへでも付いてくる中国の報道陣にも、びっくりするばかり。共産主義のプロパガンダや毛沢東主席の写真が、やたらと目に付いたことも忘れない。 あの頃の中国人は豊かではなかったと、ボチェンスキーは言う。テレビや電話を持っている人はほとんどおらず、外界の情報を得る手段がなかった。みんな画一的な人民服を着ており、女性は髪が短く、スカートやドレスで着飾る人はいなかった。 中国は学校で習ったような国ではないと、ボチェンスキーは思った。「中国について学校で勉強したのは、歴代の王朝をはじめ、長く輝かしい歴史のことばかりだった」と、ボチェンスキーは言う。「共産主義革命があったことは知っていても、現代の中国についてはほとんど知識がなかった。たいていのアメリカ人がそうだったと思う」 ===== 貧しくて世界から孤立していた71年の中国では、文化大革命が進行していた。「あのとき中国人の通訳やガイドは『今は女性も外に出て働いている。そのための保育施設もある。社会はいい方向に向かっている』と言っていた」 アメリカの卓球選手は、中国の内情を知るための西側世界の「目」となった。帰国すると、取材攻勢と講演旅行が待ち受けていた。「飛行機を降りたら、すぐ記者会見場に連れていかれた。何百台ものカメラが待ち構えていた。『これから記者会見に出てもらえます?』などとは聞かれもせず、ただ言われたとおりやりなさいという感じだった」と、ボチェンスキーは言う。 ニュース番組などに出演するため、ボチェンスキーはアメリカ各地を回った。翌年、アメリカ側が返礼として中国の卓球チームを2週間招いたときには、交流試合に参加するためさらに忙しくなった。 中国チームの訪米時のハイライトは、米中両国代表がホワイトハウスにリチャード・ニクソン大統領を訪問したことだ。ニクソンは前年に米卓球代表が訪中したときから、中国との交渉の糸口を探っていた。 ニクソンが掲げた長期計画 米卓球代表が中国を訪れていた71年4月13日、ニクソンはヘンリー・キッシンジャー大統領補佐官(国家安全保障問題担当)らとの会話記録の中で、対中関係について長期的な計画を持っていると語っている。 「中国への対応には、いくつかの長期的な理由がある。実に重要なものだ。それが現在の出来事につながっている。ピンポンだ」と、ニクソンは語っている。「ここで可能な限りポイントを稼ぎたいが、(卓球を)利用しているように見えるのは避けたい。ここには(対中関係よりも)はるかに重要な駆け引きも絡んでいる。ソ連のことだ。卓球代表の訪中はソ連を激怒させる。(だが)中国との駆け引きも、もちろん重要だ」 当時、米中両国が連絡を取り合う手段はほとんどなかった。しかし会話記録の中でニクソンは、中国が世界各地で西側との関係改善に向けた「小さなサインをたくさん出している」と語っている。「雪解けは近いと、ずっと前からにらんでいた」 米中の国交正常化が実現したのは79年。ニクソンが退任した後だった。 ===== ボチェンスキーは、中国選手団の訪米から25年目の97年に再び中国を訪れた。そのとき中国は、すっかり様変わりしていたという。 「25年がたって、一般市民も外からの情報を得られるようになっていた。私たちが泊まったホテルにはテレビが1台あって、卓球の試合を見ることもできた。それに、みんな携帯電話を使っていた。97年当時、アメリカ人はほとんど携帯電話を持っていなかった」 試合会場の雰囲気も大きく変わっていた。71年には、会場を埋めた2万人の観衆が一斉に拍手を始め、一斉に終わらせたものだった。しかし97年の観客は色とりどりの服を着て、大きな歓声を上げるなど自由に振る舞っていたという。 2022年には北京で冬季五輪が開かれる予定だ。08年に夏季大会を開いた北京は、史上初めて夏冬両方の五輪を開催する都市となる。 22年北京冬季五輪に託すこと しかしアメリカの一部の政治家は、中国の人権問題などを理由に北京大会のボイコットを呼び掛けている。もっともアメリカの五輪委員会はボイコットに強く反対し、カナダやイギリスの五輪委員会もそれに賛同している。 スポーツに国家間の壁を打ち破る力があることを目の当たりにしたボチェンスキーは、北京冬季五輪でも同じことが可能なはずだと考えている。「大会ボイコットの主張は、アスリートのことを考えていない。スポーツを通じて交流し、互いを理解することはとても大切だと思う。そういうところから共通点を見つけていかないと、世界の大きな問題は解決できない」 10代にして中国を訪問したボチェンスキーは、図らずも「ピンポン外交官」になれたことを誇りに思っている。アメリカの卓球界では今も特別な存在だ。 「私はこれからもずっと、あの『中国に行った女の子』なのよね」
Source:Newsweek
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