07.13
26年連れ添った妻が亡くなり、半年後にかかってきた電話。伝えられた言葉に驚かないではいられなかった
【こちらも読みたい】5年前に亡くなった親友に携帯メールを送り続けていた私。ある日、震撼する9文字の返信が届いた
レベッカと結婚して26回目の記念日を、私たちは病院で祝った。妻は末期の大腸がんを患っていて、痛みを緩和するためホスピスで過ごしていたから、お祝いムードというのは正しくないかもしれない。でも、2人とも祝おうとしたことは確かだ。
私は少しだけおしゃれをし、妻にはエレガントな青色のワンピースを選んだ。自分たちの斬新さあふれる結婚式の写真と彼女が好きだった赤ワインを手に病院に向かった。主治医に確認後、車椅子を押して庭に行き、ワインを飲んだ。暖かく、晴れた9月初旬の金曜日。晩夏を彩る花々が咲き乱れ、2頭の青色の蝶が私たちのつらさと喜びが混じったパーティーに顔を出した。
レベッカは精神的な落ち込みが和らいでいたようで、結婚式の思い出を語り合ったところで、自分が死んでしまった後、私にどういう人生を歩んでほしいと思っているか話し始めた。
まずは子どもたちのこと。精神的にも経済的にもできる限りは手助けしてほしいということ。次に妻である自分のこと。思い出す時には病気をした姿ではなく、愛情の面を覚えていてほしいということ。そして、私がダメになってしまわないこと。また誰かを愛することに臆病にならないこと。誰かを愛するということは痛みを伴うこともあるけれど、それ以上に素晴らしいことだからと妻は言った。
そう話す彼女に「せっかくの結婚記念日にやめよう」と私は言って手を握り、青白い頬にそっとキスした。
「わかっているけど、この数年大変な思いをしたでしょ」
「レベッカと比べると何てことはないし、それに、もう前にも聞いたから」
そう、妻はもう何十回も自分がいなくなった後のことを口にしてきた。がんが両方の肺にも転移し、余命を意識するようになって3年。セカンドオピニオンを求めてがんセンターに行き、可能性のある治療法について聞いたが、専門家からは「すぐには何もありません」と言われただけだった。
レベッカとはテキサス州ヒューストンにあるロスコ・チャペルで結婚式を挙げた。手をつなぎ、黙ったまましばらく座っていた。抽象表現主義で知られるアーティスト、マーク・ロスコによる心揺さぶる紫色のキャンバスは、その後の私たちの結婚生活の一部となった。
これが一緒に過ごす最後の結婚記念日になるとお互いにわかっていた。レベッカはまだ53歳の若さだというのに。
「ごめんね。こんな思いをさせてしまったことに罪悪感があるんだ」とレベッカは言い、ワインを一口飲み、私に腕を回した。
「後ろめたいっていうのは、病気になったから?」
「そう。この3年はあなたにとってつらいものだったと思う。でも、子どもたちにとってはこれからがつらいものになる。あなたは新しい相手を見つけるだろうけれど、あの子たちは母親を失うことになるんだから」
妻は決意の表情を浮かべると、腕を私から外した。
「ホスピスにも出会いが転がっているかもしれないんだからね。子どもたちが気に入る人を見つけてよね」
「もういいってば」。私は少し声を荒げた。もういっぱいいっぱいだった。
レベッカの両肺には腫瘍が広がり、酸素吸入が必要な状態だった。家で過ごしていた時には、夜中に誤ってチューブを抜いてしまい、2人でパニックになることもあった。
レベッカはとても痩せ、肌はまるで白く輝く磁器のようだった。それでも、彼女は力強さを失っておらず、美しかった。そして、知り合ってからずっとそうだったように、自分のことよりも他の人のことを思いやっていた。
私が髪をとかしてあげると、妻は立ち上がり、寝室の浴室まで酸素タンクを引きずって行き、鏡に映る自分の姿を確認した。
「どれほど具合が悪いかわかった?」と聞く私に悲しげに頷いた。
翌日、痛み緩和のために一時的にホスピスに入院することにOKしてくれた。
結婚記念日の当日も痛みはあったものの、少しだけ気分が上向いたようで、従来の軽妙さを取り戻していた。私は意識的に自分を落ち着かせ、妻を大切に思っていることと、家族のことを思ってくれていることへの感謝を伝えた。
レベッカは笑顔になり、私たちはまたワインを口にした。
結婚生活を乗り越える後押しをしてくれた明るくて、ちょっとだけ皮肉混じりのユーモアが戻ったようだった。ワインを飲んだ私の「赤ワインひげ」を茶化し、結婚式で着た安っぽい緑色のスーツを思い出してからかった。
一緒に過ごしてきた日々に乾杯した。
レベッカはそれから1カ月頑張った。ついに痛みから解放された朝、妻をお風呂に入れ、彼女が好きだった香水をつけてあげた。妻は突然「私はデオドラントの香りなんてさせたくない」と言い出して私を驚かせた。
「デオドラントじゃなくて、クリスマスに君に贈ったVera Wangの香水だよ」。そう伝えると、「あれはすばらしい香水!」とうれしそうに言った。
それが妻レベッカの最後の言葉となった。
しばらくして、「これまでの人生で出会った誰よりも素敵な人でした」と天国に旅立った妻に伝えた。
その日の午後、レベッカのメモリアル・ベンチを訪れた。私が真ん中で両側に娘が座り、手をつなぎ、目を瞑った。
ベンチの置き場所として、飛び石が配置された小川のそばを選んでいた。両親と小さな子ども2人がやって来て、川の中をつま先立ちで歩く姿を見て、私たち夫婦も娘たちがまだ小さかったときに同じことをしたと思い出した。
しばらくベンチに座り、それぞれがそれぞれの思いや焼け付くような思い出にふけった。
穏やかな小川にかかる秋色の葉をした木々から陽の光が差し込んでくる。この瞬間を切り取ってみても、レベッカはこれ以上ない場所にベンチを置いてくれた。この先も同じように感心すると思う。
哀悼の意が世界中から届いた。ローマやエクアドル、タンザニアにいる昔の同僚たち、 4大陸に散らばった友人たち、暖炉のところでついこのあいだ出会った高齢の夫婦。みんなレベッカが心を動かした人たちばかりだ。
レベッカが細かく準備した追悼式を、娘2人と一緒になんとかやり遂げた。式は終わり、みんなを見送り、私は寝室のベッドにもぐり込んだ。妻が苦しみ、でも、最後に安らぎを見出したベッドに。
明るく美しかった10月は、11月のどんよりした灰色の空へと移ろっていった。家に1人、レベッカの物と思い出に囲まれて過ごした。無用になってしまった医療用品が急に目に付くようになった。
悲しみについて多くを学んだ。新鮮な気持ちで1日を始める朝であれば、レベッカの物を処分するか取っておくかなど比較的考えやすいということも学んだことの1つだ。どんなに思いや気持ちが詰まっていたとしても、物に過ぎないということも。
職場で涙が出ないように、夜に泣くように心がけもした。だけど、仕事中に泣いてしまう日もあった。涙はまるで枯れることのない泉のようだった。
悲しくて仕方がなかった数カ月が過ぎても、仕事中に涙が出てしまうことがあった。同僚に気づかれないように、窓の外を見るフリをした。泣いていることに気づいた仲間もいたが、優しく支えてくれた。
どうしようもなくレベッカに会いたい気持ちを持ちながらも、子どもたちと一緒になんとか長い冬を越した。
4月のある日、レベッカの親友のデボラから電話がかかってきた。メモリアル・ベンチの置き場所を一緒に考えたあのデボラだ。
天国に旅立ってから6カ月が経った日に、私に電話し、あることを伝えるようレベッカに頼まれたのだという。
「外に出かけて、いろんな人と出会って。女性も含めてね」
レベッカは死んでしまってもなお、どれほど私のことを思っているかを伝えてくれる。
勇気を持つこと、思いやりのある人になること、そして愛について本当にたくさんのことを教えてくれた。レベッカにとって、愛は優しさを表現することだった。そうすると決めたときから、相手のことを大切に思う。お墓からだって同じことらしい。
私が悲しみに打ちひしがれる姿を見て、嫉妬とは無縁の愛情で苦しみを解き放とうとしてくれている。深い真理を感じる。
大切なパートナーを亡くしてからも人生は続く。痛みが完全に消えることはない。レベッカのことは今でも恋しい。私にとって、悲しみは天気のようだ。嵐は突然に訪れるし、反対にこの上なくピーカンな日も。暗雲にはどれも名前と顔がある。
Source: HuffPost