09.27
帰れぬ硫黄島、54回目の同窓会「たとえ敵前逃亡と言われても」【戦後80年】
太平洋戦争で本土防衛のとりでとなり、米国の占領期を経て、1968年の返還後は日米の訓練が行われる「基地の島」となった硫黄島。都心から南へ1250キロ、小笠原諸島の南に位置する。
戦争末期に疎開し、戦後80年が経っても故郷へ帰れないままの島民ら約110人が9月半ば、神奈川県川崎市で旧交を温めた。
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「かよちゃん!」「えっちゃん!」。東京都の八丈島で暮らす森下佳代子さん(91)と静岡市清水区の鍋田エツ子さん(92)は数十年ぶりの再会を喜び合った。
小学校5年生まで硫黄島で暮らしていた2人。戦前の島の模型を前に「このあたりに家があったじゃない?」「いや、こっちだよ」「じゃあそっちには…」と互いの脳裏に浮かぶ風景を重ね合い、会話が弾む。「硫黄島民1世」といわれる、戦前に島で生まれ育った人たちが共有する、豊かな暮らしがあった頃の島の記憶だ。
硫黄島の模型を前に目を輝かせて話す森下佳代子さん(右)と鍋田エツ子さん硫黄島は宝の島
「さとうきび畑をしていたからね、絞って砂糖にする機械が家にあって、搾りかすをその燃料にしてね…」と森下さんが目を輝かせて話す。「立派な鳥居の神社があって、綺麗な石が敷き詰められていてね。土俵もあって、お相撲さんは立派な緞子の化粧まわしで…」と鍋田さんの思い出話は途切れることがない。手作りの模型に視線を送り「硫黄島は宝の島だよ」とつぶやいた。
戦前、進水式でにぎわう硫黄島の海岸明治時代に開拓が始まった硫黄島では、戦前、採掘した硫黄や生産した砂糖、コカなどを本土へ送り、約1200人が豊かな生活を営んでいた。だが太平洋戦争末期、島は本土防衛の最前線となる。島で軍属となるよう命じられた島民男性の多くは戦死した。家族や友を残して島を出るよう強いられた島民たちは、開拓した土地も財産も失い、慣れない疎開先で苦労を重ねた。
散り散りになった思いをひとつに
終戦から23年後の1968年、小笠原諸島は米国から返還された。「散り散りになってしまったみんなで同窓会をしよう」──そんな計画が立ち上がったのは、島が日本に復帰して間もない頃だ。
篠崎允さん(87)は当時をよく覚えている。硫黄島で生まれ育ち、島の大正尋常高等小学校で20年近く教員を務めた父、卓郎さんは同窓会の発起人だった。卓郎さんが中心となり、全国各地で数人ずつ、小規模で集まっていたかつての教え子たちに声をかけて最初の会を開いたのは55年前のこと。「親父は『あいつも来た、この子も来た』ってすごく嬉しそうでさ。住所が分からずハガキを出せなかった人もどこかから聞きつけて来たりして、硫黄島出身者だけで200人ぐらいいてさ。すごい活気だった」と允さんは振り返る。
硫黄島の小学校の全校児童。1931年頃「敵前逃亡」と言われても
疎開の前に父の転勤で本土に移った允さんは、酒の入った同窓生から「お前は島の苦しみを知らない。敵前逃亡だ」と絡まれて悔しい思いをしたこともあった。だが父が亡くなった後も、年1回の会合に欠かさず参加してきた。
集まった島民の中には、帰島への要望を語る人もいれば、もう帰らないと言う人もいた。家族を島に残して失った辛さから、何も口にしない人もいた。だが島を離れた後の道を違えても皆、故郷への強い思いが胸にあった。その思いが受け継がれ、同窓会は「全国硫黄島島民の会」と呼称を変えて続き、允さんは会の副会長として運営をサポートしてきた。
硫黄島の島民3世と話す篠崎允さん(右)島民から子、孫へと続く
1度の休会を除き、毎年続いてきた会は今年で54回目。戦後80年を経て、役員は来年度から、孫世代の島民3世に引き継がれる。
允さんは「島の土の匂いが消えつつあるけど…年月が経ったんだからしょうがない。あんなに3世がいるから大丈夫だね」。会の途中、挨拶のため壇上に立った3世たちを見て微笑んだ。
現在の会長、寒川蔵雄さん(75)は島民2世。「硫黄島を忘れないでほしい、島を開拓した1世たちの思いを次の世代につなぐのが自分の役目だ、とこれまでやってきた。頼もしい3世に託すことができてほっとしている。頑張ってほしい」と次の世代へエールを送る。
寒川蔵雄さんこの日の会は、亡くなった島民たちへの献花や音楽演奏を含めて約4時間に及び、島の関係者たちが盃を交わし合った。「かよちゃん、かよちゃん!」帰り際、鍋田さんは手押し車を押して森下さんに声をかけ、2人は握手をして別れを惜しんだ。
新会長になる西村怜馬さん(43)は「硫黄島で生まれ育った1世たちは普段、離れ離れに暮らすほかない。故郷の思い出を分かち合える貴重な場になっているこの会を大切にしていきたい」と話す。
壇上であいさつする硫黄島の島民2世や3世たち参加者ひとりひとりを丁寧に見送り「生前の祖母の口癖は『硫黄島に帰りたいね』だった。せめて島へ墓参に行く機会が増えるよう、東京都や小笠原村に働きかけて、会で良い報告ができるようにしたい」と意気込みを語った。
(取材・文=川村直子)
Source: HuffPost




