08.26
命日、ご両親と一橋大学の献花台へ。男子校の友人が語ってくれた彼の「あだ名」【一橋大アウティング事件から10年③】

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忘れられることが辛く悲しい。母が語った息子のやさしさ
名古屋のご実家を訪れて3カ月後の、2019年8月24日。亡くなった彼の命日に、ご両親と一緒に私は一橋大学の国立キャンパスにいました。
大学側の責任は認められず残念な結果ではありましたが、東京地裁判決を経て一区切りとなり、「事件後ずっと距離をとることしかできなかったキャンパスを、ようやく訪れることができるかもしれない」と気持ちの整理をしたとのことでした。
「プライドブリッジ」の川口さんも合流し、事件のあった東キャンパスのマーキュリータワー(大学院総合教育研究棟)に到着すると、そこには、学内でLGBTQ+ Bridge Networkの活動をされている本田恒平さんが中心となり設置された献花台とメッセージを残すノートがありました。
一橋大学の国立キャンパスに設置された献花台とメッセージを残すノート「忘れられることが、いちばん辛く悲しい」と献花台の前で泣き崩れるお母さんと、その背中をそっと支えるお父さん。
2人の姿が残像のように目の奥に焼きついていて、国立駅までの帰り道、雑踏の音も耳に入らず、ただただ自分にできることはなんだろうと考えていました。
「今日は本当にありがとうございました。自分自身も、事件後に初めて訪れました。絶対に、この出来事のことはずっと残していかないと、と思っています」
何が正解かはわかりませんでしたが、とにかく、これからも連絡をとって、お会いして、色んなお話を共有する時間をいただきたい。そんな自分の正直な気持ちをなんとか絞り出して、ご両親にお伝えしました。
献花台のノートに書かれた言葉2020年11月25日、新型コロナウイルス感染拡大のなか東京高裁で控訴審判決がありました。原告側の請求は棄却されたものの、アウティングが人格権ないしプライバシー権などを著しく侵害する許されない行為として、日本で初めて認定される画期的な判決となりました。
その後も、東京2020大会直前に実施した「第5回レインボー国会」や名古屋で開催されたパートナーシップ制度を求める活動の報告集会、名古屋のご実家で近況報告をするなど、ご家族とお会いしてきました。
思い出深いのは、2022年9月に「金沢プライドウィーク2022」にご両親に参加いただき、プライドパレード前夜に、私の両親と5人で金沢の割烹で食事をしたことでした。
ご家族の金沢赴任時代の話などで盛り上がり、少しリラックスされたのか、お母さんが、兄妹喧嘩をしながらも妹を気にかけて想っていた兄のこと、兄妹で自分にプレゼントを準備してくれたエピソード、彼が好奇心が旺盛でいろんなことにチャレンジしていたことなど、やさしい口調で語られていました。
これまでは、自分が息子に一橋大ロースクールを勧めなければ、こんな出来事は起きなかったと、ご自身を責め続けているように見えていたお母さんでしたが、親同士の会話で、自然に子どものことをお互いに褒めあったり、自慢しあったりする空気が生まれたのかもしれません。お母さんのその穏やかな笑顔が本当に嬉しかったです。
「金沢プライドウィーク2022」開催時、私の故郷・金沢にて、彼のご両親と私の両親と5人で食事中高男子校の環境がつくり出した、キャラとしての「自分」
彼が亡くなって10年というタイミングで、10年間の歴史と変化と希望を、きちんと残したい。そんな書籍の企画をご両親に相談して、ご友人にも話を聞きたいと伝えたところ、お母さんが、息子さんの高校時代、大学の学部時代、3人の友人たちと連絡を取り調整してくださいました。
2024年12月末から2025年1月にかけて、それぞれとお会いして、彼の人となりや当時の人間関係についてお話を伺いました。
1人目は、中高男子校の同級生、Oさん。中学3年の時に部活動でも一緒になり、高校3年間はとても仲が良く、ご家族にも親友の1人だと伝えていた方でした。
彼は一浪して中央大学へ。Oさんは現役で東京の大学に入るも途中で1年間休学したこともあり、卒業は同じタイミングに。2人を含む中高の同級生6人で、大学の卒業旅行に京都の天橋立に行くほど、Oさんと彼はお互いにとって本当に大切な友人同士でした。
年末、大学卒業後に名古屋で就職したOさんの自宅を訪問しました。お土産をお渡しし、自己紹介をしたあとに席につくと、おもむろにOさんが語り始めました。
「自分は今でも、とても後悔しています。実は、高一の途中から、彼のあだ名は『ゲイゲイ』だったんです。自分も彼をそう呼んでいたこともありました。今ではとても差別的だったと理解していますが、当時はそんな意識もなくて……」
「でも、信じてください。決して彼をバカにしたり、イジメたりしてなくて、むしろ、親しい友人たちは彼をゲイだと知っていて、みんな、それも個性のひとつだと受け止めていた、そんな環境だったんです。うまく伝えられないのですが」
予想もしていなかったエピソードに最初は当惑しました。過去のイジメを矮小化しているだけではないか、と疑いの気持ちも湧きました。ただ、Oさんが私の目を真剣に見つめて、なんとか伝えようとしているので、丁寧に事実関係を掘り下げて聞いてみると、当時の状況が理解できてきたのでした。
友人同士で休み時間に盛り上がっている時に、ひょんなことで、彼のスマホに男性同士のアダルト動画のファイルが保存されていることがわかり、彼はそれを否定することはせず、実は男性も好きなんだよね、と笑って答えたとのこと。そのあと誰かが彼を「ゲイゲイ」と呼ぶようになったが、ひとつのキャラ付けのような感覚で、彼自身も嫌がる素振りもなく、いつしか日常に溶け込んでいったのだと。
Oさん曰く、生徒が400人強となる男子校の進学校という環境は、今思えば、いわゆる一般社会とは少し違っていて、アイドルオタク、筋トレマッチョ、全国レベルのオーケストラ部、数学オリンピック出場者など、本当に多様な生徒が存在していて、むしろ極めたキャラであることがリスペクトされ、ポジションが確立するのだと。学外に彼女がいる同級生も稀で、男女関係や「モテ」を意識したりする共学とは違うのかもしれないと。
私自身も、電通9年目で部署異動したタイミングで、似た経験をしたことがありました。合コンに参加したり、彼氏を彼女と置き換えて会話したりすることにも疲れ、人間関係を希薄にして「つれない奴」で通していたなか、急な営業への異動で戸惑っていた時でした。
お得意先からの歓迎会の誘いに、当時のチームの先輩に、唐突に「こいつ、ゲイなんで、合コンとか行かないんすよ」と、冗談混じりで紹介されたのです。「なんで!?」と動悸を感じながらも、咄嗟に笑って誤魔化した結果、いつしか「ゲイかもしれない」キャラとして扱われるように。
それはそれで付き合いや卑猥な会話を避けられる「体のいい」理由となり、私も曖昧な対応をするようになっていました。偶然手に入れた処世術かもしれません。その後カミングアウトしたので、この先輩からは平謝りされました。
彼が「ゲイゲイ」と呼ばれ、男性も好きな「キャラ」として存在することを、どのように捉えていたかはわかりません。少し先にオシャレに目覚めた彼が、ヘアジェルやワックスの使い方を同級生に教えて、「さすが『ゲイゲイ』だな」と言われて嬉しそうだったとも聞きました。
心の中では、キャラなんかじゃないという憤りや苦しさ、虚しさや無気力感もあったかもしれません。ただ、先生などの大人は知らず、仲間うちだけの扱いだったとのことで、家族に知られたり、いじめの対象になったりする不安のない、安全地帯や隠れ蓑だったのかなと。それも「自分」として折り合いをつけていたのだろうなと思えました。
大学という新しい環境と、「自分」らしく居られる中高の仲間たちとの狭間で
大学に進学すると、その安全地帯に変化が起きます。
東京で、名古屋で、大学でも頻繁に会っていた彼とOさんが、お互いの友人に声をかけた食事会を開いた時のこと。高校時代のノリで、彼のことをゲイとして扱った瞬間に、ものすごい形相で睨まれたそうです。
そう言えば「大学で付き合っている彼女」としてボーイッシュな女性の写真を見せられたことがあったな。うまくいかず別れたと言っていたけど。多分高校でのノリと彼が通う大学の環境は違うんだろうな。反省して、以降は彼がゲイであることや恋愛の話などは、高校の同級生以外との会話では触れないよう心がけたとのことでした。
大学のキャンパスでは、恋愛やセックスの話題が高校時代よりもリアルなものとして可視化され、性的マイノリティでなかったとしても、見えないプレッシャーを感じる人が多いと思います。
私自身も大学時代は、クラス、学園祭実行委員会、ゼミ、部活動、バイト……いろいろなコミュニティに属しながら、見えないプレッシャーをかわし、常に仲間と会話を合わせ、帳尻を合わせることが最命題で、どこにも所属できていないような空虚感を感じていました。ゲイで生まれてしまったのだから仕方ない、ゲイで生きるというのはそんなものかなと、どこか諦めてもいました。
学生時代、オーストラリアのメルボルンに留学していた2年間のみカミングアウトをしていたので、留学時代の友人が、私の友人や仕事関係者と偶然繋がり、会話が繰り広げられる場もヒヤっとしたことのひとつです。
2014年春、一橋大ロースクールに入学した彼と、社会人となり名古屋へ戻ったOさん。盆と正月に名古屋で集まる以外は会えなくなっていたなか、翌2015年の8月中旬、彼から突然電話があったそうです。
「水道橋の後楽園行こうぜ。ジェットコースター乗りたい」
「いま名古屋だって!」と冗談かと思い答えても、彼は朦朧としているようで様子がおかしい。すぐに行動することもできない。その後、他の同級生に、彼と連絡をとってみてとLINEでメッセージを送るに留まってしまったそうです。
数週間後、知らない番号から携帯に連絡があり、相手が妹さんだとわかった瞬間、彼に何が起こったかを察したとのことでした。
「無理してでも東京に向かっておけば良かった……」涙を堪えて言葉を詰まらせた時、家のインターホンが鳴りました。
大学の卒業旅行メンバー6人のうちの2人、NさんとHさんが到着。Oさんが声をかけてくれていたのでした。
2人の彼に対する印象も、あだ名の扱いも、学校の雰囲気も、そして大学に入ったあとは「ゲイゲイ」や「キャラ」を隠していたということも、Oさんと同じ意見でした。
みんなで彼の大学がある八王子キャンパスに遊びに行き、下宿のそばで真夜中にフリスビーをして盛り上がったこと。彼が高3の時にチンペイと呼ばれる同級生に告白したと聞いたこと。それに対して、Nさんが「俺じゃダメなの?」と聞いたら、「お前は顔がタイプじゃない。お前はゲイにモテないタイプだ」と一蹴されたことなど、たくさんの思い出を共有してくれました。
そして、彼の下宿の部屋に黄色い絵が飾られていたのを見た記憶はない、というのが3人の総意でした。
※第4話は8月27日に掲載予定です。
(編集:笹川かおり)
『一橋大学アウティング事件がつむいだ変化と希望 一〇年の軌跡』編著:松中権(サウザンブックス社)『一橋大学アウティング事件がつむいだ変化と希望 一〇年の軌跡』(編著:松中権/サウザンブックス社)を彼の命日の8月24日に出版しました。LGBTQ+活動団体代表、大学教員、ジェンダー/セクシュアリティ研究者、市民団体職員、ライター、新聞記者など、8名の著者がそれぞれの視点で綴った10年の歴史と変化と希望、次世代へのメッセージを1冊にまとめました。
Source: HuffPost




