2025
08.24

彼が遺した「黄色い一枚の絵」、家族や友人の“希望”を未来につなぐために【一橋大アウティング事件から10年①】

国際ニュースまとめ

名古屋の実家に飾られていた大切な絵との出会い

ゲイであることを同級生に同意なく暴露(アウティング)され苦しんでいた一橋大学ロースクールの学生(当時25歳)が、2015年8月、大学敷地内で転落死する痛ましい事件がありました。 

「彼は私だったかもしれない」。一橋大学出身のゲイのひとりだった私は、この事件をきっかけに、電通を辞めて、二足のわらじではなく、LGBTQ+の活動に専念する決意をしました。 

>「彼は私」でした。一橋大アウティング事件で、電通を辞めて向き合ったひとつの感情。

2025年8月、10年を迎えるいま、その歩みを全5回で振り返ってみたいと思います。 

一橋大学アウティング事件で亡くなった学生のご実家を初めて訪れたのは、2019年5月末のことです。

ご両親と、事件が起こる2年前から家族に加わった犬が、名古屋市の郊外で静かに暮らしていました。

2月27日の東京地裁判決の日に一橋大学卒業生を中心に設立した「プライドブリッジ」の具体的な活動状況など、きちんとご報告することができていなかったこともあり、講演会で名古屋に出張する機会にあわせて、時間をいただけないかと相談したのでした。

穏やかな午後、近くの駅にお父さんが迎えに来てくださり、いっしょにお家へ。お母さんにご挨拶をした後、まずは、お線香をあげたいと思い、仏壇のある部屋に通していただきました。そこには、位牌とともに骨箱も置かれていました。

「どうしても、まだ、お墓に入れてあげる決心がつかなくて……」

目に涙を浮かべるお母さん。なんとお返しするのが良いかわからず、私は言葉に詰まってしまいました。それを察してか、お父さんが声をかけてくれました。

「いろいろとゆっくりお話もしたいので、その前に息子の部屋もぜひ見てやってください」

そう言って、2階へと案内してくれました。綺麗に整頓された彼の部屋には、法律関係の本や参考書がギッシリと並んだ本棚があり、家族の写真や彼自身の写真などが入ったフォトフレームもいくつか飾られていました。とても闊達で誰にでもフレンドリーだったのだろうなと想像させる彼の良い笑顔がたくさんあり、お会いしたことのない自分でさえ、すでに亡くなれて4年が経とうとしていることが事実として受け止められない、そんな感覚でした。

そして、振り返ると白い壁の真ん中に、額装された黄色のポスターのようなアートが一つ掛けられていました。

「あの子が大切にしていた絵なんです。下宿のアパートに飾ってあったそうですが、仕送りを使い込んで買ったとかで、私たちが上京する時は壁から外して隠していたらしくて。お友達から教えてもらいました。親に怒られるとでも思ったのかもしれませんね」

お母さんが少し笑顔になっていて、安心しました。

「息子が亡くなった後、しばらく下宿には行く気になれず、2カ月と少し経ったころだったか、ようやく娘と3人で行けてね。遺品整理といっても東京に出て5年ちょっとですから、たくさんあるんですわ。一部だけ選んでこの家に送り、あとは処分することにしました」

「その後、そう言えば大切にしている絵があると聞いていたと思い出し、友人に聞いたら、大学に保管してあることがわかりました。それで、こちらに送ってもらうことができたんです」

普段はどっしりと構えているお父さんも、どこか柔らかい表情に。昔話で盛り上がる2人の声を少し遠くに感じながら、私は何度か絵を見つめ直し、驚きと緊張と襟を正すような気持ちで、絵に向かってポツンと立っていました。

しばらくして、大きく深呼吸をして、ゆっくりと2人に語りかけました。

「お父さん、お母さん、この絵、何の絵か知ってましたか? 息子さんが習っていたチェロがモチーフだと思うのですが……弦を巻くペグの部分を、見てください。よく見ると、ペグではなく、タキシードを着た男性2人が並んで立っているんです」

亡くなった学生の実家の部屋に掛けられていた絵亡くなった学生の実家の部屋に掛けられていた絵

ご両親とも目を丸くして、絵を覗き込んでいました。  

この瞬間まで全く気が付かなかった。彼がチェロ好きだったので、それで購入した絵なのだとばかり思っていた。そう言って、本当にびっくりしていました。

後に調べたところ、キャッチコピーに「ペレストロイカ ーそれはみんなにとってのことー」とロシア語で書かれたこの絵は、A.N.ヴァシュチェンコという人が1987年に制作したもので、1985年から1991年にかけて当時のソビエト連邦の最高指導者ゴルバチョフが推進したペレストロイカに関する政治ポスターでした。

亡くなった彼が、どこで、どうやって、この絵を見つけ手に入れたかはご両親も知らず、彼自身がポスターの制作背景を承知していたのかも、今では分かりません。

ただ、私には、この絵を見つけた時の彼の笑顔やワクワクが眼に浮かぶようでした。「チェロに、タキシードの男性2人。まさに、自分にぴったりの絵だ!」と。

一階の居間に移動すると、お花好きのお母さんが生けたフラワーアレンジメントの横にも、やさしい表情の彼の写真が飾ってありました。

お母さん手作りのチーズケーキをいただきながら、3人でおしゃべり。さらには、ご家族でよく訪れたというレストランにて、妹さんとパートナーさんも加わり、5人で夕食。彼と妹さんの小さい頃のエピソードや、事件が起きた後の一橋大学や同級生の対応についてなど、たくさんのことを教えていただきました。 

私も子どもの頃に、音楽の先生であった父からヴァイオリンを習っていたことがあったり、ご家族はお父さんの仕事の関係で、私の地元である金沢で暮らした時期があったり。偶然にも重なることが多く、話が尽きることはありませんでした。 

大切な黄色い絵が遺品整理の中で捨てられることなく実家に届けられ、私自身がこうやって出会えたこと。ご家族にタキシードの男性2人の存在について伝えられたことは運命なのかもねと、みんなで前向きに盛り上がった一晩でした。

亡くなって10年、書籍を残す企画とともに

帰りの電車の中で、私はふと、東京新聞の奥野斐記者が東京地裁判決の直前に書いた連載記事「アウティングなき社会へ」のことを思い出していました。

そこには、彼が5歳から習い始め、中高のオーケストラ部で弾いていたチェロを、大学の集まりで自己紹介代わりに披露したというエピソードが掲載されていました。  

「自分は愛を語れないけれど、今からチェロで演奏します」と言って奏でたのが、イギリスの作曲家エルガーの「愛の挨拶」だったというものです。

「ペグに隠れた、タキシードの2人」

「愛を語れないけど、愛の挨拶」

チェロという共通点とは別に、ぼんやりと、いずれにも通じる彼の思いや意思があるように思えたのでした。ただ、それ以降も、そのことを思い出しては頭の中でモヤモヤしたまま、きちんと向き合うことなく時間が経っていました。

今回、彼が亡くなって10年というタイミングで何かできることはないかと、「プライドブリッジ」をともに立ち上げた神谷悠一さん、川口遼さんと意見を重ねました。そして、「ジェンダー/セクシュアリティとライフデザイン」という寄附講義、一橋大学キャンパス内でのリソースセンターなど、いろいろな方々の協力を得て一橋大学にカタチとして残せるものに取り組んできたように、10年間の歴史と変化と希望を、きちんと書籍としてまとめて残そうという企画が生まれました。

書籍にするならば、今こそ、改めて、「黄色の絵」や「愛の挨拶」にモヤモヤと私自身が感じとってきた彼の思いや意思のようなものを、きちんと言語化しておきたい。ご家族のみなさんとの交流、この年末年始にかけてお会いした彼の同級生たちとの対話を振り返りたい。

そして、それぞれから共有いただいた彼の人となりやエピソードを通じて、彼が一人の当事者として、どんな未来を見据えていたのかを自分なりに想像し、綴っておきたい。そう思うようになりました。

※第2話は8月25日に掲載予定です。

(編集:笹川かおり)

『一橋大学アウティング事件がつむいだ変化と希望 一〇年の軌跡』編著:松中権(サウザンブックス社)『一橋大学アウティング事件がつむいだ変化と希望 一〇年の軌跡』編著:松中権(サウザンブックス社)

一橋大学アウティング事件がつむいだ変化と希望 一〇年の軌跡』(編著:松中権/サウザンブックス社)を彼の命日の8月24日に出版しました。LGBTQ+活動団体代表、大学教員、ジェンダー/セクシュアリティ研究者、市民団体職員、ライター、新聞記者など、8名の著者がそれぞれの視点で綴った10年の歴史と変化と希望、次世代へのメッセージを1冊にまとめました。

【あわせて読みたい】「彼は私」でした。一橋大アウティング事件で、電通を辞めて向き合ったひとつの感情。

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Source: HuffPost