07.12
「日本人ファースト」と、選挙に一度も行けなかった105歳のひいおばあちゃん
おにぎりを作るひいおばあちゃん【関連記事】「日本人ファースト」に潜む危険性とは。参政党の街頭演説で語られたことと、人々が「差別反対」を掲げた理由
「◯◯党は日本人ファースト。今、日本で大きな問題は外国人の移民問題だよね。◯◯人が増えて、治安も悪くなるし、良くない」
こうした投稿をSNSで見かけるたび、田舎に住むひいおばあちゃんのことが私の胸に浮かぶ。
畑をいじり、よく食べ、よく寝る。腰を曲げながら作ってくれるおにぎりは、ふわふわしているのになぜだか崩れない。耳は遠くなってしまったけれど、認知症にもなっておらず、ひ孫の近況をちょっと波打つような、柔らかな方言で尋ねてくる。
そんな105歳の私のひいおばあちゃんは、今も国から「日本人」として認められていない。
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ひいおばあちゃんは、かつて日本によって強制的に植民地にされた朝鮮半島の出身だ。1930年代、彼女が16歳の頃、経済不況を逃れて日本に渡った(※)。読み書きの方法も一切わからないまま、戦時中の田舎町で農業や服飾裁縫をはじめ、当時彼女にできるどんなことも生業にして、家族を支えながら生きてきた。戦争下と戦後の日本社会に「適応」することに生命を注いだ。
けれど1990年代、入管特例法により「特別永住者」の在留資格が創設されたのに合わせ、ひいおばあちゃんが日本国籍を取得しようとした時、同居する息子夫婦の申請は認められたのに対し、ひいおばあちゃんだけ認められなかった。
法務局から返ってきた不許可の理由は、「日本経済に貢献できる年齢ではないから」だった。
罪を犯したわけでも、広大な土地を買ったわけでもない。不認定の理由は、ただ「年齢が高すぎる」というだけだった。
今なお日本国籍のないひいおばあちゃんは、日本で一度も選挙の投票に行ったことがない。
(※編注:日本が朝鮮半島を植民地支配していた1920〜30年当時、多くの朝鮮人が日本へと渡った。日本政府が労働力として要請、強制連行する場合もあれば、本人の意思で渡航した場合もある。渡日の背景はさまざまだったが、当時は朝鮮が日本の統治下にあり「同じ国内」の移動とされていたため、「密航」や「不法入国」にはあたらない)
不安を向ける先は誰か
ひいおばあちゃんが畑で育てたトマト目まぐるしく変化し続けるこの社会で、将来への不安は大きくなるばかりだ。先が見通せず、表現できないような恐怖を感じてしまうのは、当然のことだと思う。
観光地、コンビニ、工事現場。街を歩けば「外国人っぽい人たち」を見かけることも増えてきた。すれ違ったり、働く姿を目にしたりする機会はある。でも込み入った会話をしたことも、喜怒哀楽を分かち合ったこともない。そんな距離感のまま、日々を過ごしている人も多いだろう。
だからこそ、「近くにいるけれど、知らない存在」として、「外国人」に対して漠然とした恐怖心や抵抗感を抱くこともあるかもしれない。近くにはいても、身近ではない。そうした関係性が、「怖い」「避けたい」「関わりたくない」といった感情を生んでしまうのではないか。
でも、その不安の行き場が「よく知らない誰か」や「自分とは違う背景を持つ人」に向かっていく風潮には、少しだけ立ち止まって考えたい。
もし自分や家族が、ある日突然「日本経済に貢献できないから」と言われて排除の対象とされたら。
この世に誕生する時、私たちの誰も、生まれる場所、家庭環境、性的指向、民族、その他諸々の条件を選ぶことはできない。だからこそ、あらゆるバックグラウンドを持つ人が、差別を受けることなく、人権を保障されるべきだと私は思う。
ある特定の人々――たとえば、外国にルーツをもつ人、LGBTQ+の人、障害のある人など――の人権が制限され、声が軽んじられるようになると、「一部の人は人権を制限されても仕方がない」という「前例」が出来上がり、その上に社会が作られてしまう。
この「例外扱い」は、やがて他の人たちにも広がっていく。ある属性の人に対する差別と排除が放置され、容認される社会では、自分がいつその「対象」になってもおかしくない。
逆に言えば、マイノリティの人権が守られている社会は、権力を持つ一部の人によってルールが恣意的に変えられたり、「強い者が勝つ」社会に傾いたりするのを防ぐブレーキを持っている。マイノリティの権利を守ることと、私たち一人ひとりの自由や安心とは、根底でつながっている。
「日本人ファースト」「迷惑外国人を排除する」━。
選挙戦では、そんな公約や候補者の発言が、街頭演説で、ネット上で溢れている。
日本で人生のほとんどを過ごすも、「日本国籍」を持つことが認められなかったひいおばあちゃん。そうした、日本社会を構成しながらも選挙権がない人たちの存在と暮らしの行方が、有権者からの票獲得に利用され、他の人たちによって決められてしまう怖さを、私はひしひしと感じている。
排除の論理を振りかざす政治家ではなく
参院選公示後初の日曜日を迎え、街頭演説に集まった人たち=2025年7月6日午後、横浜市内5月の大型連休にフランスから日本に来た友人が、こんなことを言っていた。
「フランスでは、第二次世界大戦が終結するまでの2世紀にわたって、アフリカから多くの人を動員して戦争に協力させた。今、その人たちの子孫がフランスで移民として生き、人数も増えている。でも、それを責めることはできないと大半の人はわかってる。だって戦争の責任は私たちにあるから」
フランスにも移民排除の主張をする人は一定数いるものの、学校教育で、そうした歴史的背景や戦争責任を教えられているのだと友人は言う。
日本でも、植民地期に渡ってきた人たちの子孫を含め、多様なルーツの人がすでに共に生き、この社会を支えている。
排外主義(※)的な言説が飛び交う選挙戦の中で、日本国籍を持つ私はこの国で、自分の意見を代表する政治家を選ぶことができる「選挙権」という「特権」を手にしている。
私が一票を託そうとしている候補者は、私の身近な人や、その人たちにとっても大切な人たちの健やかさと、安心して暮らせる日常を、本当の意味で大切にする人だろうか。
私が求めるのは、誰かを標的にして不安を煽り、排除の論理を振りかざすような政治家ではない。
私たちの4、5世代ほど前の国家や社会、一市民による戦争加害の歴史を否定することなく、きちんと向き合う。「知らない」からこそ、お互いを知る努力を怠らない。社会が創り上げてきたマイノリティを、あらゆる人を大切にする。そんな人に、私は投票したい。
(※)排外主義とは、国家は「自国民」のみで構成されるべきだとする立場に立ち、移民などの外国出身者や外国にルーツを持つ人々を国民国家の脅威とみなして、そうした人々や外国文化を排除・排斥しようとする思想や考え方。
【著者プロフィール】
日本在住、複数ルーツをもつ、3.5世の30歳。社会や自身に連なる複数性・交差性に目を向けてモノを書くオートエスノグラファー。
(執筆=碧詞(Aoshi/Pyeoksa)、編集=國﨑万智)
Source: HuffPost




