2025
06.28

かゆい…デリケートな場所に生じた耐え難いかゆみ。医師に伝えた「ある一言」がすべてを変えた

国際ニュースまとめ

最初はただのかゆみだった。うっとうしく、しつこいそのかゆみは、弱まる気配をみせなかった。

夜も眠れないほどかゆく、掻かずにはいられなかった。私は「いんきんたむし(股部白癬)だろうか」と思い、市販のクリームを塗って「そのうち治るだろう」と考えていた。

しかし、症状は悪化していった。

数週間が数カ月になり、かゆみはじわじわとした焼けつくような痛みに変わった。ヒリヒリとした腫れるような炎症が、鼠径部(そけいぶ)全体に広がっていった。

掻けば掻くほど症状は悪化し、赤く腫れて無視できないほどになった。

何かがおかしい。

抗真菌薬、薬用石けん、パウダー。あらゆるものを試したが、どれも効かなかった。

年に一度の健康診断で、症状を相談すべきか迷った。患部が鼠径部ということもあって話しにくく、気まずさを感じていた。

それでも症状を伝えると、医師は手袋をして素早く患部を確認し「たぶん、ただの真菌感染症でしょう」と言った。「市販の治療薬を使い続けてみてください」

その言葉を信じて診察室を出ようとした時、医師は少し迷ったような表情をした。

「念のため、別の医師にも診てもらっていいですか?」

数分後に2人目の医師が鼠径部と陰嚢の一部に広がった赤くただれた部分を診察した。2人の医師は短く話し合った後、深刻な病気ではないと思うが念のため皮膚科で診てもらったほうがいいと提案した。

それは大きな負担ではなかった。私は30年以上前に悪性黒色腫と診断され、完治している。皮膚科には定期的に通っているので、いつもの診察のついでに診てもらう感覚だった。

皮膚科の医師はいんきんたむしかもしれないと言ったが確信を持てなかったようで、新しい薬を処方して数週間後に再診すると言った。私は「今度こそ、しつこいかゆみとおさらばできる」と信じ、病院を後にした。

しかし数週間後に病院に戻った時に、症状は悪化していた。

陰嚢にできた小さなニキビのような病変は治らなかった。皮膚科医は頭をひねった。湿疹?接触皮膚炎?それとも別の種類の真菌感染症?

私は新しい薬を1カ月以上試したが、効果はなかった。別の薬に切り替えても同じだった。

時間とともに、深刻な問題があるということがはっきりしてきた。その時点で、症状が現れてからすでに1年半以上が経過していた。あらゆる治療を試したものの、どれも効果がなかった。全く改善をみせない皮膚科通いが9カ月目に入った頃に、私はこう尋ねた。

「生検(患部の一部を採取して、顕微鏡などで詳しく調べる検査)をしてみてはどうでしょうか?」

その一言が、すべてを変えた。

一瞬の痛みを伴うパンチ生検で、皮膚の一部が検査用に切り取られた。原因がわからないまま、1年半以上を過ごしていた私は、ようやく希望の光を感じた。ついに答えが見つかるかもしれない。

数日後に電話をかけてきた皮膚科医の声には、ためらいが感じられた。

「大変お伝えしにくいのですが……生検の結果、浸潤性の乳房外パジェット病(EMPD)と診断されました。がんです。」

【画像】がんの一種、乳房外パジェット病の患部の写真

私は呆然とした。心臓が激しく鼓動し、冷や汗が全身に広がった。がん?乳房外パジェット病なんて聞いたことがなかった。

頭が混乱する中、医師に何度も説明を繰り返してもらいながら、震える手で必死にメモを取ろうとした。「浸潤性」という言葉は一体何を意味するのだろう?

その後の数週間で、私は乳房外パジェット病(EMPD)が非常に稀で、深刻な病気だということを少しずつ理解し始めた。

調査対象によって異なるが、この病気を発症するのは100万〜900万人に1人程度だと考えられている。女性では主に外陰部、男性では性器に発症することが多いが、肛門周囲、会陰部、そしてわきの下で症状が出る場合もある。

乳房外パジェット病と乳房で起きるパジェット病の細胞には同じ特徴があるが、乳房以外の部位に発生するため「乳房外(extramammary)」と分類されている。非常に稀な病気で、多くの医師は症例を見たことがないため、診断が非常に難しい病気でもある。

乳房外パジェット病は単独で発症する場合もあれば、他の臓器からのがん転移のサインとして現れることもある。いずれにせよ、早期発見が非常に重要だ。

この稀で複雑な皮膚がんは、地域によっても特徴が異なる。

西洋諸国では女性の患者が多い一方で、多くのアジア諸国では男性の患者が多数を占める。主に40歳以上、ほとんどの患者は65歳前後で発症するものの、17歳の診断例もある。

「浸潤性」という言葉を聞いた時に頭に浮かんだのは「私は死ぬのだろうか?」という疑問だった。答えははっきりしなかった。乳房外パジェット病は転移することもあるが、多くの場合、ゆっくりと広がる。それでも、私は最悪のシナリオを想像していた。

診断を受けた時には、がんはすでに鼠径部を越えて進行していた。皮膚科医は早急に手術できる外科医を見つける必要があると言った。

しかし乳房外パジェット病の執刀経験がある医師を見つけるのはかなり大変だった。数週間探した末に、私はようやく長期的な回復への道筋を示し、尿路再建手術ができる泌尿器科医を見つけた。

大学病院で、全身麻酔をして一日がかりの手術を受けた。手術の間、医学実習生らが手術室と少し離れた病理検査室を何度も往復して組織サンプルを運び、病理医たちが凍結切片でパジェット病のがん細胞が残っていないかを検査した。

泌尿器科医は、脚から採取した皮膚を移植して、陰嚢、陰茎、会陰部、その周囲の組織を慎重に再建した。がん細胞がすべて取り除かれたと思うたびに、まだ残っていることが判明し、同じ過程を何度も繰り返さなければならなかった。

夕方になると、手術チームはがん細胞をすべて取り除いたと確信し、慎重に縫合した。翌日、担当医は私に手術が成功したことを伝えた。

モンタナ州ガーディナーのイエローストーン国立公園北口にあるルーズベルト・アーチをくぐった筆者。乳房外パジェット病と診断されて以来、旅行は大きなストレス解消になっているというモンタナ州ガーディナーのイエローストーン国立公園北口にあるルーズベルト・アーチをくぐった筆者。乳房外パジェット病と診断されて以来、旅行は大きなストレス解消になっているという

私の体は、病院のベッドにじっと横たわり、皮膚移植を受け入れようと必死に闘っていた。これまで経験したことのない激しい痛みに襲われていた――皮膚が内側から引き裂かれ、焼かれているような深い激痛だった。わずかな動きでも全身に激痛が走り、強い鎮痛剤を使っても、絶え間ない痛みはおさまらなかった。それでも、数日かけて痛みは少しずつ和らいでいった。

この間、ある考えも私を苦しめた。他にも同じように苦しんでいる人がいるのではないだろうか?

なぜ私は乳房外パジェット病のことを一度も聞いたことがなかったのだろう? なぜ情報がこんなに少ないのだろうか?天井を見つめるしかない私には、考える時間がたくさんあった。

この状況を変えなければならない、と心に誓った。

私は乳房外パジェット病の情報サイトを作り、サポートグループを立ち上げた。正確な情報を提供し、同じ境遇の人たちと繋がり、この病気の患者は自分一人ではないと実感できる場所だ。乳房外パジェット病になったことは変えようがなかったが、他の患者が病気と向き合う手助けをしたかった。

回復には時間がかかった。鏡の前で手術跡を見られるようになるまで、1カ月を要した。ようやく手術跡を見た時、驚きと感嘆が入り混じった気持ちになった。驚くほどたくさんの量の組織が切除されていた一方で、手術した場所がほとんど変わらずに再建されているのを見て、ただただ感動した。

それでも、回復は苦痛を伴うものであり、痛みを気にせずに動けるようになるまでに数週間かかった。

しかし、その安堵は長く続かなかった。1年も経たないうちに、赤みとかゆみが再発したのだ。

私は手術の後に別の州に引っ越していたため、新しい医師たちと一から治療をやり直さなければならなかった。

その後の4年間、私は大学病院や専門のがん病院で何度も手術を受け、再び広範囲の皮膚移植を受けた。完治のための手術だったが、乳房外パジェット病には標準的な治療法がないため、すべての決断が神頼みのように感じた。

単にがんの闘病をしているのでなく、医療システムと闘っているように感じる日もあった。病院間の連携がほとんどなかったので、診療記録を自分でまとめ、受診のたびに同じ話を繰り返さなければならなかった。とても骨が折れた。

私は、腕が良く思いやりのある医師たちに恵まれたものの、それでもシステムの制約のせいでスムーズな連携ができなかった。

電子カルテのおかげで情報にアクセスすることはできたものの、異なるネットワーク間の相互運用性がなかったので、情報共有は遅れ、非効率的だった。どんなに優れた医師でも、重要な情報が簡単に共有されなければ、できることは限られてしまう。

最もつらいことの一つは孤立だった。乳房外パジェット病を知っている人がほとんどいない上、私の経験を理解してくれる人はもっと少なかった。

私は、もっと強く問題の深刻さを訴え、早く生検をしてほしいと求めるべきだったと悔やんでいた。そうすれば、もっと早く正確な診断を下され、これほど多くの手術を受けずに済んだかもしれない。それでも過去は変えられない。

私は、乳房外パジェット病の認知を広め、この病気と闘う誰もが孤独や戸惑いを感じないようにすることが自分の使命だと感じた。

立ち上げた時にはたった1ページのウェブサイトが、今では乳房外パジェット病に関する最大のオンラインリソースになり、50か国以上、900人を超える患者や家族がつながる場所になっている。

ほんの数人を探すために始めたサイトが、世界的なコミュニティへと発展したのだ。

新たに仲間が加わる一方で、多くの人がこの病気との闘いに敗れている。この現実に、早期診断やより良い治療法、継続的な認知向上が早急に必要だと改めて思い知らされる。

認知度が高まるにつれ、新たな研究が行われるようになっている。現在、多くのメンバーが乳房外パジェット病の研究に参加しており、この希少疾患の理解と治療の進展に希望をもたらしている。

アラスカにあるデナリ国立公園を訪れた筆者。アウトドアを楽しむことはメンタルヘルスの向上にとって欠かせないというアラスカにあるデナリ国立公園を訪れた筆者。アウトドアを楽しむことはメンタルヘルスの向上にとって欠かせないという

デイム・エドナ・エバレッジを演じた俳優でコメディアンのバリー・ハンフリーズが2023年に亡くなった時、乳房外パジェット病と闘っていたことが明らかになった。多くの人と同じように、ハンフリーズは乳房外パジェット病と診断されたことを公表しなかった。この病気は多くの場合、亡くなるまで知られない。

私は5年前に乳房外パジェット病を克服した。そのことに感謝しているが、闘病は私を変えた。自分の体に耳を傾け、答えを求め、健康を決して当たり前と思わないようになった。

私はよく「かゆみを無視していたらどうなっていただろう」「『生検をしてみてはどうでしょうか?』という一言を口にしなかったらどうなっていただろう」と考える。

私は今もここにいるのだろうか?

その問いは、私の発言や行動の原動力になっている。乳房外パジェット病について知ってもらうことは、患者の孤独感を和らげるだけでなく、早期発見や、病気の理解や治療のための研究を後押しする。

私は、この病気を抱える人の声が無視されないようにしようと決めている。

筆者:スティーブン・シュレーダー。元役員。浸潤性の乳房外パジェット病(EMPD)を経験し、啓発活動と支援に力を注いでいる。ワシントン州スポケーンで妻と2匹の猫とともに暮らす。趣味は旅行やハイキング、アウトドア。乳房外パジェット病の啓発活動と患者をつなげるためのウェブサイトmyEMPD.comを立ち上げ、国際的な乳房外パジェット病支援グループを作る。

ハフポストUS版の寄稿を翻訳しました。

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Source: HuffPost