06.18
沖縄観光を楽しむ私たちは、沖縄戦の歴史を知っているか。ある映画が問いかける、慰霊の形と歴史との向き合い方

「英霊の顕彰」か、「犠牲者の慰霊」か──。
沖縄本島南部に位置する沖縄戦の激戦地で、「平和の礎」や「黎明之塔」など様々な慰霊碑が林立する「摩文仁の丘」(糸満市)。
ドキュメンタリー映画『摩文仁 mabuni』では、摩文仁の丘に異なる思いを持って足を運ぶ、沖縄住民、旧日本軍の元兵士、自衛隊、米軍関係者、韓国人遺族など、様々な立場の人たちを取材。慰霊の形や歴史との向き合い方について、静かに疑問を投げかけている。
沖縄での先行上映を経て、6月23日の「慰霊の日」を前に21日、東京での上映が始まる。
15年間かけて本作の撮影、編集にあたった、新田義貴監督に話を聞いた。
摩文仁の丘に訪れる、様々な思いを持った人々の姿

──摩文仁で慰霊の形をめぐり、映画を撮ることになったきっかけや思いは
沖縄での取材を始めたのは、独立前、NHKに所属していた時に福岡放送局に転勤になった1995年頃。沖縄での取材自体はもう30年になります。2009年に独立し、翌年から本格的に摩文仁での取材を始めました。
きっかけはNHK勤務時、6月23日の「慰霊の日」に平和記念公園(糸満市摩文仁)で開かれる沖縄全戦没者追悼式の取材時に見た光景でした。
摩文仁の丘には、「平和の礎」を始めとする多くの慰霊碑が建っていますが、中継として放送するのは総理大臣や知事も出席する追悼式の様子などです。しかし、1日中取材をしていると、摩文仁の丘を訪れる様々な人たちの姿を目にします。
沖縄戦を指揮した第32軍司令官・牛島満中将が自決した地に建つ「黎明之塔」を自衛隊が訪れ、本土から「英霊の顕彰」に来る人たちも。
韓国からのご遺族もいらっしゃいますし、在沖米軍も盛大な式典を行います。取材を始めた当時はまだ、戦友会の高齢男性たちも目にしました。
摩文仁の丘には様々な思いを持った人々が集まります。その様子は、摩文仁という場所の複雑な様相や、本土と沖縄、アメリカ、韓国も含めた関係性や事象を象徴しているようだと思い、定点的に撮影したいと考えました。
日本兵の顕彰に来た人たちも「二度とこんなことがないように」とはっきりと言っています。そのように、共通する思いもあります。
分断を強調したいわけではなく、異なる思いが交錯する中で、交わる考えもあるということを伝え、人々を多角的に撮りたいと思いました。
慰霊に訪れる遺族に長年、花を売ってきた、集団自決の生存者

──映画の主人公である大屋初子さんが、集団自決について話すシーンが印象的でした。
大屋さんは語り部や活動家などでもなく、花売りのおばあちゃんで、激烈な戦争の体験者でもあります。集団自決を生き残った方です。
摩文仁の丘からは少し離れた、旧摩文仁村に建つ「魂魄之塔」のそばで、参拝者に花を売り続けてきました。
魂魄之塔には遺骨が帰らない多くの沖縄の人々の遺族が訪れます。大屋さんは、花を売りながらそこを守っているような存在で、私は「沖縄の慰霊」というものを象徴するような人だと思っています。
大屋さんとは2013年に出会い、始めはカメラなしでおしゃべりしているうちに、家にも招待していただくなど、そんな関係が続いていました。
魂魄之塔には、沖縄県内の学生が平和学習に来ることもありますが、そこで彼女は多くを語ることはありません。
今はもう89歳の大屋さんも、出会った頃は70代後半でした。語り部の活動などはされていないのですが、沖縄戦で起きた事実や自分が見たことを話し、残さなければいけないという思いは持っていらっしゃったようです。
集団自決では、自分の妹を鎌で殺したというような人もいました。集団自決の場にいた方は「自分だけ生き残ってしまった」という思いで、なかなか自身の経験を話すことはありませんでした。
しかし高齢になるにつれ、やはり自分が見たことを話しておかないといけないと思う方もいらっしゃり、大屋さんもそのような気持ちでご経験を話してくれたのではないかと思います。

取材を続けていた沖縄戦については、NHKで番組化したり、ウェブメディアで発表したりしていましたが、いつかは映画にしたいという思いはありました。
なかなか忙しく実現できていなかったのですが、そうこうしているうちにもう沖縄戦のことを語れる証言者がほとんどいなくなってきてしまいました。
以前に撮影をし、映画に登場する方々は大田元県知事含め、すでに他界された方もいて、認知症でインタビューが難しいという方もいます。今後は、新たに戦争体験者の証言を撮るということは本当に難しくなってきます。
15年間、撮り続けてきた証言は一つの記録です。戦後80年というタイミングで、クラウドファンディングを行い、これまで取材を受けてくださった沖縄の人たちに対する感謝を込めて、映画化することができました。
沖縄観光を楽しむ本土の人たちは、沖縄戦を知っているか
──作中では、地図を用いて沖縄戦について分かりやすく説明するシーンもありました。作中では沖縄と本土の“分断”についても触れられていましたが、東京で本作を上映することにどのような思いを持っていらっしゃいますか。
戦争中に沖縄で何があったのかということを、本土の人に伝えたいという気持ちが強くありました。
映画のタイトルにも「mabuni」とローマ字での表記を添えましたが、これは本土の人には「摩文仁」を読めない人も多いからです。
沖縄の人々にとって摩文仁は沖縄戦の象徴ですが、本土では知らない人も少なくありません。
本土の人たちの多くは沖縄が好きで、旅行で海や水族館に行くけれど、良いところばかり見て、沖縄が置かれてきた歴史や、戦後も米軍統治下で苦労してきたことなどをよく知りません。
この映画の冒頭にも出てくる、牛島満中将を祀った黎明之塔への自衛隊の参拝や、辺野古の新基地建設問題などで沖縄の人たちがいざ声をあげると「沖縄の人たちはいつも文句ばっかり」だと言います。
戦後80年のタイミングで、きちんと沖縄戦の歴史について伝えたいと思いました。
「犠牲者の慰霊」か「英霊の顕彰」か

──映画では、慰霊の形について問いかけ、戦没者の慰霊に対する様々な「断層」を取材されていました。慰霊碑に着目した背景は。
沖縄には数百の慰霊碑がありますが、そんな場所はなかなかありません。それぞれの慰霊碑にそれぞれのストーリーがあります。慰霊碑ができた経緯一つとっても、沖縄と本土の間でせめぎ合いがありました。
慰霊碑の建立は大きく分けて3フェーズあると考えていて、始まりは戦後、沖縄の人たちがあたり一面に広がっていた遺骨を拾って納めた骨塚がやがて慰霊塔となった「魂魄之塔」。大屋さんが長年、花を売っていた場所です。
そして、2つ目のフェーズが沖縄の本土復帰前後に建てられた旧日本軍の兵士を顕彰する慰霊碑です。その象徴として、牛島満中将を祀った「黎明之塔」があります。
3つ目のフェーズとして、1995年に大田昌秀元沖縄県知事が戦後50年に作った「平和の礎」があり、ここにはアメリカ兵や韓国の方など国籍も問わず、民間人、軍人、全ての人を慰霊するために建てられました。
映画では、それぞれの慰霊碑に訪れる人々の姿を追っています。

戦中に沖縄に送られ、勝てる見込みのない酷い作戦の中で戦うことを強いられ、若くして死んだ旧日本軍の兵隊たちも「被害者」だと思っています。映画でも取材していた元日本兵の近藤一さんのように、戦友の方が慰霊碑に手をあわせることに抵抗はありません。
しかし、国家が「国のために戦った」として死んだ兵隊を「英霊の顕彰」とすることは、また次に戦争をする時に兵隊を募るためにやっているようだと感じます。
私自身、ウクライナにはロシア軍侵攻直後から3度取材に行っていますが、同じような顕彰の光景を目にしました。キーウの街の真ん中の広場に独立記念塔が建っていますが、その周りにウクライナの旗や、戦没した兵隊の写真がずらっと並んでいます。
ウクライナは、徴兵年齢の幅を広げるなどの対策を取っていますが、兵士不足に直面しています。だからこそ、戦没した兵士を顕彰しているのです。沖縄での「英霊の顕彰」と、似かよったところがあるのではないかと感じました。
沖縄で何が起きたのか、何が起きているのか。本土の人々は関心を持っているか
──映画では、司令官の子孫も取材されていました。大田実海軍司令官の孫である大田聡さんが沖縄をめぐり「弱いところに負担を押し付けて、日本社会が社会構造として成り立っている」「忸怩たる思い」と話されていました。その言葉をどう受け止めていらっしゃいますか。
沖縄と本土は、非常に関係性が一方的だと感じています。なぜ日本にある、基地などの米軍専用施設の7割が沖縄にあるのか。その背景には沖縄戦の歴史があります。
戦後も27年間、アメリカの占領下に置かれていました。しかし、本土の人たちは沖縄の女性たちが米兵の性暴力の被害に遭っていることや、米軍機が小学校に墜落した事件、交通事故でひき逃げされた事件などは知っているでしょうか。そのような沖縄の人たちの痛みに、関心を持っているでしょうか。
沖縄出身の仲間が「沖縄は『癒しの島』だと言われているけど、俺たちは一体どこで癒やされればいいんだ」とよく言っています。
美しい海や自然だけでなく、沖縄では何が起きたのか、何が起きているのかということにも関心を寄せてほしいと思います。
<上映情報>
6月7日〜:桜坂劇場(沖縄・那覇市)にて上映中
6月21日〜:シアター・イメージフォーラム(東京・渋谷)
(取材・文=冨田すみれ子)
Source: HuffPost