06.06
「DEI採用」がチャンスをくれた。ラテン系の私が貧しい生活から今の人生を手に入れるまで
筆者のイヴォンさん【あわせて読みたい】ハーバード大学に合格した。父は沈黙し、祖父母は衝撃的な言葉を私にぶつけた。
プロのジャーナリストとしてのワクワクする新生活の初日は、上司からの1つの質問から始まった。
「What are you?(あなたは何人なの?)」
上司は、私が「マイノリティ(白人以外)」に見えないと言った。私がこの仕事を得られたのはマイノリティだからだよね?と。
私は何者なんだろう?私は「DEI採用」(多様性、公平性、包括性を保つための採用枠)という言葉が存在するずっと前からDEI枠として採用されていた。
私の名前はイヴォン・コンデス・デ・ラ・トーレ。勤勉な両親から、彼らより楽な人生を送れるようになるため、アメリカに適応するよう教え込まれ育ったラテン系2世のX世代だ。見た目は白人で、そこそこのスペイン語しか話せないが、内面は誇り高き「チカーナ(メキシコ系アメリカ人)」だった。
「私はメキシコ人です」と答えた。しかし、上司のそのシンプルな質問が、私の出身地や、どうやって自分の現在地に辿り着いたのか、そしてこれまでの道のりがどれほど他の人と違っているのかを考えさせた。
その数カ月前、競争率の高い「マイノリティ」インターンを募集していた新聞編集者との面接の直前に、教授が私を脇に呼び、1年間の有給インターンシップについてこう言った。
「これは絶対に逃したくないチャンスだ。特別な何かを持っているなら、今こそ出すべきだ」
私は心の奥で、自分に特別な「何か」があるという自信はなかった。私の伝統的なメキシコ系アメリカ人の両親は、兄弟には良い成績や大学進学を期待していたものの、私や姉妹にはそれについて話すことすらなかった。
高校卒業後、私はコミュニティ・カレッジ(学費が安い地域の2年制大学)に通いながらウェイターとして働き、その後地元の大学に編入した。このプロセスは、私の幼なじみたちより何年も長くかかった。彼らはそのまま4年制大学に進学し、私が大学を卒業する頃にはキャリアを築いていた。
高みを目指そうだなんて、私は何を考えていたのか。
結局、私には特別な何かがあったようだ。
私はそのインターンシップを得て、想像もしていなかったような人生を歩むことになった。トランプ政権が連邦政府からDEIを一掃し、アメリカ企業にもそれにならうよう圧力をかける中、あのDEI採用の機会がなかったら私はどうなっていたかと思う。
新たな生活の中で感じた周囲との階級の差
インターンシップは夢のようだった。インターンは3つの異なる新聞社で4カ月ずつ過ごし、各都市で家具付きのアパートと生活費が支給された。
その1つは、中西部の小さな新聞社だった。教育委員会の会議からカージャック事件、職場で移民捜査を受けて捕まった男性の妻が、夫の残留を求めて闘う姿まで、あらゆるものを取材した。
一生懸命働き、全ての任務に「はい!」と元気に応じ、航空ショーを取材するため、飛行機恐怖症を堪えてプロペラ機に乗ったこともある。
でも、どんなに勇気を出しても、それが自信に変わることはなかった。毎朝、上司たちが、私の採用を後悔しているのではないかと心配しながら出勤した。残念なことに、私のインポスター症候群はインターン先だけのことではなかった。周囲みんなとの階級の差を感じていた。
私は、新聞社で一緒に働くグラフィック・アーティストと、彼女の大学時代の友人と友達になった。週末はパーティーやバーに行ったが、よく見知らぬ人と、政治についてや、なぜ人種的・民族的な形容句を使うべきではないのかについて口論していた。
当時、「ステルス・ラティーナ(忍びのラテン系女性)」の意味は知らなかったが、私は「白人」の覆面を被り、彼らが自分たちしかいないと思っている時に本当は何を話しているのかを常に聞いていた「潜入捜査官」のような気持ちだった。
こうした夜のお出かけに私が運転を申し出ると、新たな友人たちは丁寧に断った。
私の車は、走行距離10万マイルの色褪せた赤い小型乗用車だった。父がインターン直前に、警察主催のオークションで見つけたもので、フロントシートの背もたれやトランク内の布地は、麻薬捜査のために切り裂かれていた。友人2人が乗っていたピカピカに輝く新車のシボレー・マリブとは大違いだった。
払うあてのない請求書の山を見つめた
インターン終了後、中西部の新聞社から福利厚生付きのフルタイムの仕事のオファーをもらった。インターンの時にような住居付きではなかったため、職場近くに家具なしの1LDKのアパートを見つけた。
職場の親切な同僚たちが、ガレージなどから探し出してきた家具をプレゼントしてくれたが、ベッドは自分のクレジットカードで買った。みんなの寛大さに圧倒されていたが、アパートに入居してまもなく、大変なことに気づいた。
夜、アパートで1人、支払うあてのない請求書の山を見つめていた。私の初めてのクレジットカードは、大学のフェアで申し込んだものだ。当時はカードの申請に、仕事や資産の有無、連帯保証人も関係なかった。カードは「緊急時のため」と自分に言い聞かせた。
私の「緊急時」は大学生活と共に始まり(低金利の学生ローンの存在を知る前)、学生ローンの支払いが始まると、買う余裕のない日用品に使った。
私は「無料」の助けが必要だったので、郡が提供するクレジット・カウンセラーを予約した。カウンセラーは私より1歳ほど年上で、私の書類に目を通しながら首を横に振った。
「実家でご両親と住めますか?」
彼女もシボレー・マリブに乗っているのだろうか。
実家に戻るという選択肢はなかった。両親にお金を借りる、というカウンセラーのもう1つの提案も断った。両親にはお金の余裕などなかった。
友人にお金についての悩みを話すと、ある考えを提案してくれた。私たち共通の知り合いの男性がお金持ちで、お金を貸してくれるという。良い気はしなかったが、他に選択肢はなかった。
もうすぐ「恩人」になる男性と私はカフェのテラスで昼食をとり、毎月分割ローンで返済する「おまとめローン」について話し合った。条件は寛大だった。利息は低く、ローンを確保するために「変な」ことをする必要もなかった。
ストレスと孤独に嫌気がさしていた
財務状況の改善に取り組み始めてまもなく、私は一流大学と大学院を卒業したジャーナリストと付き合い始めた。彼は経済的余裕があり、素晴らしいライターだった。
私たちが、文化的、経済的にどれだけ違う人生を生きてきたかをあまり考えないようにしていた。でもある日、彼のテーブルの上に両親からの小切手が置かれているのを見つけた。数百ドル(数万円分)の小切手だったが、私にとっては100万ドル(約1億4000万円)のように感じた。
彼はお金持ちなのだろうか?私が貧しいことに気づいてる?
世代間で受け継がれる富について、そしてそれを持たないことが何を意味するか、そして経済的にも社会階層的にも私は彼に決して追いつくことはできないだろう、という大人の会話を始めたと言いたいところだが、それを説明する言葉も成熟さもなかった。
お金がなく、ストレスを感じ、孤独であることにどれだけ嫌気がさしていたかを口にすることもできなかった。
代わりに、彼と口論を始めた。
その後すぐ、私は姉の住む北カリフォルニアで仕事のオファーをもらい、引っ越した。その数年前、姉はカリフォルニアで大学を卒業し、ロースクール(法科大学院)に通った。
私が引っ越した後、寛大な姉のおかげで、私は1年間、家賃なしで姉のアパートに同居し、少しずつ借金を減らし、自分のアパートで暮らすために貯金をした。
恋人とは別れた。引っ越さなかったとしても、肩の荷が重すぎた。
数年後、素敵な男性に出会った。彼は持ち家があり、責任感もある。これまで家賃やクレジットカードの支払いに慌てパニックに陥ったことなどない人だった。
今も続く新聞の衰退が始まった頃、私の雇用主が早期退職報酬金を提案したとき、私たちはすでに婚約していた。
私はジャーナリストの安定した仕事を辞めることの意味について考えなかった。今後の支払い以上のことは見通せなかったし、対等な立場で結婚式を迎えられたらどんなにいいだろうと思っていたからだ。だから早期退職報酬金を受け取り、イリノイ州の恩人への残りの借金の返済に充てた。
DEIプログラムが私の人生の軌道を変えた
31歳で、やっと息ができるようになった。それ以来、私は執筆を続け、2人の子どもを育て、いくつかのビジネスを立ち上げ、その1つを売却した。そして私を成長させてくれた、あのDEIのインターンシップへの感謝を忘れたことは一度もない。
私が自分のストーリーを語っているのは、この国(アメリカ)でDEIの取り組みを失うことは壊滅的であり、すでにその影響を目の当たりにしているからだ。
大学は、黒人やラテン系、LGBTQ+の学生の入学や成長を助けるためのプログラムを削減している。教育省を不安定化させることで、トランプ政権は学生ローンや学資援助プログラムを大混乱に陥れようとしている。
学生ローンがなければ、私は決して大学を卒業することはできなかっただろう。私の状況はラクではなかったが、人種プロファイリングや差別を受けていたらもっと困難なものだっただろう。
私の中古車のトランクは、バンジーコードで抑えられていて、運転すると上下に揺れた。でも「白人」に見える私は、警察に止められることはなかった。より肌の色の濃いラテン系の学生は、正常に稼働しているローライダーに乗っていただけで、しょっちゅう警察に止められていた。
移民収容施設に放り込まれ、その後「行方がわからなくなる」など、なんて恐ろしいのだろう。
DEIプログラムは無料の景品ではない。職場や学校、政府がアメリカをより良く反映できるよう、公平な状況を作るものだ。
例えば、アメリカの人口のうち、ラテン系は20%を占めているが、ジャーナリストの中では8%しかいない。2024年に紙媒体やネットのニュース編集部から解雇された数百人のうち、不釣り合いなほどの割合が有色人種だった。
DEIプログラムは私に機会をくれたが、私は仕事を勝ち取り、状況を変えることで、私と子どもたちの人生の軌道を変えることができた。
息子2人は今大学に通っているが、自分自身を信じ、自分に流れるラテンの血を愛すよう教えてきた。また、財務状況について私が苦労して学んだことについても告白した。
私の家族は、アメリカの大部分と同じように人種のるつぼだ。
良い教育やそれなりの仕事を得ようとしている若者の邪魔をするのではなく、多様性、公平性、包括性こそがアメリカを偉大にするものだと私は信じている。
ハフポストUS版の記事を翻訳・編集しました。
Source: HuffPost




