10.15
【朝鮮日報】エルサレムに「日本のシンドラー(杉原千畝)」の名冠した広場誕生
杉原の四男でベルギー在住の杉原伸生さんは記念式で、「父は偉大なことをしたとは思っておらず、ユダヤ人が困っていたのでビザを発給しただけだった。それが多くの人を救い、何万人もの子孫につながっていると知ったら驚くと思う」と語った。エルサレムのレオン市長は「今回の広場命名は、彼の高尚な行動に対し感謝の意を表したものだ」と説明した。杉原は第二次世界大戦初期だった1939-40年にリトアニアの臨時首都だったカウナスで日本領事代理を務めたが、当時ナチス・ドイツからの迫害を避けて海外に脱出しようとしていたユダヤ人が第3国に向かうことができるよう、日本通過ビザを2139件発給し、米国などへの亡命を助けた。
このため杉原は、第二次世界大戦時にポーランド系ユダヤ人を救ったドイツの実業家オスカー・シンドラーになぞらえ「日本のシンドラー」と呼ばれるようになった。当時ドイツの同盟国だった日本政府はビザの発給を禁止する訓令を出したが、杉原はそれを破って自身の裁量でビザを発給した。1940年に列車で任地を離れる直前まで妻と一緒に一日数百枚、手書きでビザを発給したという。杉原が発給した通過ビザは1枚で1家族が使用でき、約6000人がナチス・ドイツの迫害を逃れて命をつないだ。そのため、「命のビザ」と呼ばれた。
杉原がルーマニアのブカレスト公使館にいた1945年8月に日本は降伏した。そして、日本が敗戦の後遺症に苦しんでいた1947年4月に家族と帰国した。2カ月後に外務省に呼び出された杉原は辞任圧力を受けて仕事を辞めた。その後、米軍のPX(売店)などで働いて生計を立てた。杉原は人々に忘れられていったが、「命のビザ」をもらって救出されたユダヤ人たちは杉原を捜し続けた。その中の1人が10代でビザをもらって脱出して、後にイスラエルの外交官になったヨシュア・ニシュリだった。ニシュリは、イスラエルの外交当局を通じて杉原を見つけ出し、1968年8月に杉原と再会した。この時、ニシュリが28年前に発行されたボロボロのビザを手にして涙をこぼす姿が話題になった。杉原の善行はこの時から広く知られるようになった。
イスラエル政府は1969年に杉原に勲章を授与した。これに先駆けて、イスラエルの地中海沿岸都市ネタニヤに杉原の名を冠した「チウネ・スギハラ通り」が作られた。中部の都市ベト・シェメシュにも杉原を記念して植えた木がある。それに加えて今回、首都にその名を冠した記念広場が誕生したもので、イスラエルは杉原を格別に礼遇している。2000年に彼の故郷・岐阜県に建設された「杉原千畝記念館」は、日本を訪れるイスラエル人観光客が必ず行く観光コースとして親しまれている。しかし、「人類愛を示した彼の行動を、日本の政権は政治的に利用している」という指摘もある。2015年1月に当時の安倍晋三首相はイスラエルのホロコースト記念館を訪れた時、第二次世界大戦における自国の戦犯の蛮行に言及せず、杉原について語った。これに対して、「歴史問題をうやむやにするためではないか」という批判が出た。
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2021/10/14/2021101480006.html
Source:脱亜論
【朝鮮日報】エルサレムに「日本のシンドラー(杉原千畝)」の名冠した広場誕生