01.04
子ども4人残し夫が亡くなった。立ち聞きしてしまった義理の家族の言葉が長年心に影を落とし続けた
夫のキースを2000年4月に亡くしてほどなくして、残された子どもたちと私のことを義理の家族の1人が話題にしているのを立ち聞きしてしまった。気の毒そうな雰囲気はゼロで、こう話すのが聞こえた。「これをきっかけにあの家族はもっと強くなれる」。
そう耳にしてから17年後、アメリカ郊外のショッピングセンターの駐車場を重い足取りでセラピストのもとへと向かっている時にも、義理の家族が放った言葉が心に影を落としていた。「もっと強くなれる」。冗談じゃない。まともに歩くことさえできないというのに。
セラピストのオフィスに入り、大きめのイスに倒れ込むように座ると、初めて会ったばかりのエリザベスに「人生がうまくいかず、この面談もお互いにとって時間の無駄になると思います」と伝えた。
すでに成人していた娘から「必要な助けを得なければ『911』に通報する」と言われ、半ば強制的にセラピストを訪れていただけだった。電話に出ない私を心配してうちまでやってきた娘が目にしたのは、ソファで長くなったまま動かない母親の姿だった。もう何週間も着替えはおろか、お風呂にも入っていなかった。
セラピストのエリザベスにあのように伝えたため、「出口はあちらです」と言われると思ったが、もっと詳しく聞かせてという想定外の答えが返ってきた。1時間近く話したところで、エリザベスが口を開いた。「あなたの苦しみは、人生がうまくいかないことと微塵も関係ありません。『レジリエンス・ファティーグ』と呼ばれるものです」。
耳にしたことのない言葉だったけれど、レジリエンスについては熟知していた。幼いころから耳にタコができるほど、レジリエンスを備えなさいと言われて育てられてきた。「自力で苦境を乗り越えなさい」「前に進むことが難しくなったとしても」「うまく行かなそう気がしても」…。もし、私が弱いわけでも怠け者なわけでもなければ、逆境を経験することでより強く、深い人間になることができる、と。
そんな私にエリザベスは「やるべきことはたくさんあります」と言った。
アメリカ心理学会は、レジリエンスを「生きるうえでの困難な状況にうまく適応する過程とその結果」と定義している。
ここでカギとなるのが「適応」という言葉だ。もし、ストレスがかかる出来事が続いた場合、適応する時間はない。「レジリエンス・ファティーグ」あるいは「有害なストレス」とは、押しつぶされそうなほどに過剰で手に負えないストレスが長期にわたって続くことなのだ。
適切な対応の仕組みを持たないまま、その状況にさらされ続けると、体が過剰反応を起こすようになる。そうなってしまうと、心理的なバランスが崩れかねず、免疫システムにだって影響を及ぼす可能性がある。
私にぴったり当てはまると感じた。
夫が亡くなった2000年4月からずっと、恐怖と不安が入り混じった心境で生活してきた。目の前に迫る破滅感、トクトクトクトクと早打ちする心臓、両肩は常に緊張状態。それが普通だと思っていた。
明らかに普通ではないのに。
夫を失ったこと、それだけでも十分つらいのに、一夜にして私は3人の子どもを抱えるシングルマザーになってしまった。さらに、お腹には4人目がいた。
ここから大変な生活が始まった。
夫は最低限の生命保険にしか入っていなかった。夫の昇進にあわせて定期的に引っ越しをする生活だったため、私は10年ほど専業主婦として過ごしていた。夫の埋葬手続きをしている時でも、頭の中では早く仕事と保育所を見つけなればという恐怖でいっぱいだった。5人家族だったので、健康保険に入る必要もあった。夫の会社の制度を使って保険に入っていたので、すぐに払えなくなってしまった。
まずは仕事を見つけることを何よりも優先した。夫の死を悼む間もなく、夫の死から3週間後に生まれた赤ん坊にゆっくり愛情を注ぐ時間もなかった。
レジリエンスのキャパは無限で、本能的に人間に備わっているものだと思っていた。しかし、カウンセリングを通して、そうではないんだと学んだ。生まれ持ったものではなく、個人の努力によるばかりでもない。然るべきサポートとリソースを通して、身につけることもできるのだ。
感じている恐怖や心配事をまわりに打ち明けたこともあるが、「若いんだから、大丈夫」「乗り越えられない試練を神様は与えない」「数年もしたら再婚できるよ。次の夫はお金持ちだね」などと言うばかりで、取り合ってもらえなかった。これらの言葉が「サポート」だと思っていた。
根性と成し遂げるという強い気持ちが自分自身を救うばかりか、いつか大変だった日々を振り返り、自分がどれだけ成長してきたかに思いをはせ、ありがたく思う日が来るのだと信じていた。長いこと、そう信じていた。
夢中で求職活動をし、しっかりした福利厚生制度のある自動車保険のコールセンターの仕事を見つけた。退職後に近所に引っ越してきてくれた両親が子どもたちのおもりを買って出てくれた。私は「I Will Survive」(邦題は「恋のサバイバル」)という歌を口ずさみ始めた。
好条件に飛びついた仕事には、落とし穴があった。電話をかけてくるのはたいてい怒りに満ちた人たちだったのだ。1日中罵られ、怒鳴られっぱなし。残業や出張をしない限り、昇給が見込めないこともわかった。どのみち残業も出張も子どもたちがいるのでできなかった。疲弊し、鬱々とした気持ちで職場を出て、口喧嘩が絶えない子どもたちがいる散らかり放題で、だけれどもかつて大切にしていた暮らしの思い出が詰まった家に帰るという日々だった。
夫がベッドで亡くなっていることに気づいた朝のことがフラッシュバックするようにもなった。時が経つにつれ、夫のことを考える時間は減るどころか増えた。なぜ何度も何度も頭の中で夫が死んだ日のことを繰り返してしまうのか。これを続けていたらいつか過去を変えられる時が来るのかと思ってしまうほどだった。
親戚にこのことを打ち明けたところ、叱られた。「悪いことじゃなく、自分の持っている幸せに目を向けるべき」だ、と。
家計の蓄えは恐ろしいほどの速さで減っていたが、もちろん家族がいることには感謝していた。愛する夫と共に過ごす生き生きして希望に満ちた生活が、修道院のような生活に変わったにもかかわらず。未来が黄色いレンガ道のように誘ってくれていたかと思えば、次の瞬間には「永久閉鎖」という看板でその道の入り口が塞がれていたにもかかわらず。
何よりも両親への感謝の気持ちが大きかった。
60代半ばにして、よちよち歩きの幼児と乳児を育てることになったのだから。私も常に疲弊していたが、両親も同じだった。両親が私と孫たちのために手を差し伸べてくれることに罪悪感を持ちながらも、私たちの関係性は悪化していった。
【画像】夫のキースが亡くなった3週間後に生まれた娘のダイアナと筆者
それでも物事をいい方向に向けられると思っていた。自分の置かれた状況を受け入れるため、毎日祈った。「The Secret」(自己啓発本)が私のバイブルになった。朝、昼、夜と肯定的な言葉を口にするようにした。失ったもののことを考えるのではなく、明るい将来を思い描こうとした。
しかし、状況は好転しなかった。私は結局、自己破産し、差し押さえを受けた。仕事も永遠に定まらない評価基準についていけず、解雇された。長女が違法薬物のヘロインを使っていることがわかり、もうこれ以上ないところまで落ちたと感じた。
悪いことはこれで終わらなかった。
父がアルツハイマー型認知症と診断され、世話をするために両親の家に移り住んだ。父がこの世を去って2年後に、今度は母に末期がんが見つかり、亡くなるまで看病をした。
そのころには、長女がヘロイン断ちに成功。これは想定外のうれしい出来事だった。しかし、今度は下の娘が不登校になり、薬物問題を抱えることになった。通っていた高校が地元の少年裁判所に刑事告訴し、居住型の精神科治療施設に入るように判事が命じたため、娘を手放さねばならなくなった。
失業中でよかった。ソーシャルワーカー、精神科医、カウンセラー、裁判所が任命した後見人との面談に行かねばならなかったから。専門家たちに生活を細かく分析され、親として間違っているとする点をすべて指摘された。だけど誰も具体的な解決策や支援については何も教えてくれなかった。
娘は2年過ぎたころ、私のもとに戻ってきた。帰ってくるなり、治療施設で性的暴行を受けたことを打ち明けられた。娘を性被害にあわせてしまったことに対する罪悪感と、心の奥底で燃えたぎる無力な怒りがせめぎ合った。あまりにも激しい感情だったので、自分が発火してしまうかもしれないと感じたほどだ。
危機的状況にありながらも、現実逃避のために参加した物書きの集まりである人物にあった。ジムという名前のその男性は、陰鬱だった私の生活を照らす明るい光のような存在になり、思わず彼との未来を想像してしまった。
だが、悲劇は続くものだ。母が亡くなって2カ月後、ジムは私の車の中で自殺してしまった。息子はジムに懐いていたため、心に大きな傷を負い、自殺を考えるようになってしまい、入院することになった。上の息子は私を有害な母親だとみなし、数年にわたって連絡を取ることを拒み続けた。
私に与えられたこの人生が、自分自身がオチの役目を担ったさほど面白くもないジョークになってしまったことをもう否定することはできなかった。天国の夫がバラバラになった家族を見ながら、うんざり顔で首を横に振っている姿が見えるようだ。
もう考えるだけで、うんざりする。リビングのソファに横になったが最後、起き上がる気力がわかなかった。まわりの人たちを失望させたことを思うと、もう死んでしまいたいと思った。
こんな私の考えを変えるべく手を差し伸べてくれたのが、セラピストのエリザベスだった。
「夫を亡くし、すぐに赤ちゃんを産みました。夫の死を悼んだり、子どもたちに手をかけたりする余裕などなく、新しい生活に全力で挑まねばなりませんでした。あなたの生活は暴走列車となり、17年後に激突したのです」とエリザベスは説明した。
精神科の看護師につないでもらい、抗うつ薬と抗不安薬を処方された。EMDR(眼球運動による脱感作と再処理)も試すことになり、少しずつ気分が上向き始めた。
人生で起きることすべてをコントロールすることはできない。しかし、エリザベスが指摘するのは、私が健康保険と保育などのチャイルドケアを確保したいがために時間との闘いに挑まなくて済んだのであれば、もっと違った結果になっていただろうということだ。
そうは言われても、レジリエンスを無気力と引き換えてしまったという思いは簡単には消えなかった。生まれてからずっと逆境がその人を人格的に強くすると聞かされてきたから。死なない程度の逆境は人間を強くする、と。
エリザベスは首を横に振り、否定した。「そのように一般化することは危険で、多くの場合間違っています。そうすることで、罪悪感を持つことなく他人の苦しみを何でもないことのようにしてしまえるのです」
人生において起きるネガティブな出来事は「心的外傷後の成長」や「ポジティブな人格変化」につながると広く信じられているが、社会心理学者や人格心理学者などで作る団体「the Society for Personality and Social Psychology」によると、「一貫して生じる成長というものは、関係性の深まり」だという研究結果が増えてきているという。
苦難の渦中にある時、大切な人たちとの関係性が大きな意味を持つ。
「そのためには、まずもってまわりの人たちと支え合えるような関係性を築いておく必要があります」とエリザベスは続ける。「同じように渦中に放り込まれたご両親を除けば、あなたは1人でやってきました。もし、夫のキースさんの死があなたをより強くすると言った親戚にいま会ったとしたら、何て言いたいですか?」
こう聞かれ、私は即答した。「『あなたが正しいってどんなに強く願ったかわからないでしょうね』って言うと思います」
エリザベスとのやり取りから7年。私の精神状態は持ち直した。子どもたちも元気に過ごしている。私たち家族はこれまでになく密接な関係が築けている。子どもたちはそれぞれまわりと健全な関係性を築き、やりたい仕事に就いている。長女は精神科の看護師になり、下の娘は同じ分野の看護師になるべく勉強に励んでいるところだ。
一番上の子が数年前に離婚したため、両親が私にしてくれたように、今は私が小さな孫たちの面倒をみている。
大切な人の死や悲劇を経験した人にありきたりな言葉をかけたくなる気持ちはわかる。かけるべき正しい言葉を見つけるのは難しい。だけど、不運を経験したことでより良くなれるとか何がしかの恩恵があるとか伝えるぐらいなら、何も言わない方がいい。
苦しみによって私は強くはならなかった。ただ、どんな人間になりたいかということは学んだ。人生の困難な時期にある人に、今の私は決まり文句を伝えるのではなく、共感とともに自分の経験を分かち合うことができる。
痛みでレジリエンスは育たない。助けの手を差し伸べることで、たとえそれが優しく耳を傾けるだけだとしても、レジリエンスを鍛えることができるのだ。
家族を支えてあげられるようになったことに感謝の気持ちでいっぱいだ。
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筆者のMargaret Jan Feike氏は自身の経験をもとに依存症やメンタルヘルス、悼みをテーマにしたエッセイを出版している。下の子ども2人とアメリカ・オハイオ州在住。
ハフポストUS版の記事を翻訳・編集しました。
Source: HuffPost