09.01
「典型的な論者を呼んでも、正直退屈」と講演会で打ち明けられた著述家が、「右でも左でもない」を目指す理由
<新しい同調圧力、新しいプロパガンダが生み出されつつある、と辻田真佐憲著『超空気支配社会』。左右のイデオロギー対立が深まる今の日本社会で、いかに生きていくべきか> ああ、またか。今回のコロナ禍でも、われわれを動かしたのは科学ではなく、やはり空気だった。 もはや誰もが薄々気づいている。緊急事態宣言の発出タイミングにも、それにともなうさまざまな自粛要請の細目にも、科学的な根拠などないのだと。そこにあるのはただ、ひとびとが行楽に出かける大型連休などに合わせて、できるだけ刺激的なメッセージを発することで衆目を引きつけ、なんとなく危ないぞという空気を醸成することで、ひとびとの行動を変容しようとする企てにすぎない。(「はじめに」より) 『超空気支配社会』(辻田真佐憲・著、文春新書)は、このように始まる。 確かにそのとおりで、そうした流れを「戦前のよう」だと表現する人も少なくない。だが、むしろ現代のほうが事態は深刻ではないだろうか。 なぜなら誰もがSNSを通じて効率的に、そして簡単に多くの人の感情を刺激できるようになっているからだ。それは、多くの人が必要以上の刺激を受けなければならない状況に追い詰められているということでもある。 ようするにわれわれの社会は、SNSが加わったことで、超空気支配社会となり、これまでにない新しい同調圧力、新しいプロパガンダを生み出しつつあるのである。(「はじめに」より) そんななか、本書では「この社会は今後どうなっていくのか」「われわれはここでいかに生きていくべきか」「そのとき頼りになる在標軸はあるのか」について論じている。 収録されている論考の多くは、「文春オンライン」をはじめとするオンラインメディアで発表されたもの。注目すべきは、ときにネット上でページビュー獲得競争に巻き込まれ、ときに罵詈雑言を含むさまざまな反応に晒されながら活動を続けてきた著者の姿勢だ。 今こそ、”専門原理主義とデタラメの中間”、すなわち、どちらにも偏りすぎることのない”バランス”を大切にするべきだと主張しているのである。 なるほどそれは、評論家や歴史家に求められるべきものであったはずだ。いつしか失われていったことも事実ではあるが、とはいえ今日のメディア状況下においてもそれは可能で、強く求められているものだろう。 だからこそ著者は、「論壇に総合と中間を取り戻したい」と強く訴えるのである。それこそすなわち、バランスを取るということだ。 ===== ネット上では極端な意見が目立つが、そういう人ばかりではない 例えば私が強く共感できたのは、「文春オンライン」に寄せられた「それでもわれわれが『右でも左でもない』をめざすべき理由」という文章だ。 現代の日本では左右のイデオロギー対立がますます深まっており、批判の仕方いかんによってすぐに右・左のレッテルが貼られてしまう。どちらにも属さず「右でも左でもない」という姿勢を取ったとしても、風見鶏だと批判されたりする。 どんな立場にいたとしても、いちいちやりにくく、発言もしづらくなっているということだ。しかし、それでも私たちは「右でも左でもない」という構えを捨ててはいけないと著者は主張する。 興味深いのは、それに関するひとつのトピックだ。 もう四年近く前のことだが、ある編集者に「書き手として、赤旗から聖教新聞まで出られるように」といわれたことがある。そのときはそんなものかと軽く受け流していたが、年々そのことばの重要性を痛感するようになった。現在では完全に座右の銘となっている。(236ページより) 言うまでもなく、両極端なメディアから共に声がかかるくらい独自路線を貫けという意味である。もっと言えば、「右のメディアにも、左のメディアにも出られるようにしろ」ということだ。 私も、これはとても重要だと感じる。 例えば”右認定”された書き手は、右から熱く支持されるいっぽう、左からは攻撃の対象になるだろう。あとから「いや、実はもっと中立的なんだ」と弁解しても、そうした本音は届きにくくなる。 だとすればその書き手が、右の読者にとって心地よく、刺激的なことを書こうという方向に向かっていったとしても不思議ではない。 「右」を「左」に置き換えたとしても同じことが起こるわけだが、いずれにしても健全ではない。特定の立場からしか声がかからなくなることは大きなリスクを伴うし、自由の喪失にもつながる。 だから著者は書き手として、中間を目指すべきだと訴えるのである。 さまざまな分断の隘路(あいろ)に陥らず、書き手として自由にやっていくためには、どうすればよいだろうか。それは、あらゆる点でバランスを図り、やはり「赤旗」からも「聖教新聞」からも声がかかるように、独自路線を追求する以外にない。 そうすることで、さまざまな弊害――凡庸な戦前批判または戦前美化を繰り返すことや、ポリティカル・コレクトネスなど大義名分を振り回すこと、また学術用語をちりばめて政治運動をことごとく衒学(げんがく)的に例証することなど――から逃れられる。(240ページより) 「現在が分断にもとづく動員の時代であることは事実なのだから、独自路線を突っ走ることこそ滅びにつながるのではないか」という考え方もあるかもしれない。しかし、そこにこそ本当の希望があるのだ。 ===== 著者は以前、ある講演会の二次会で、主催者に打ち明けられたことがあるそうだ。 「こういう場に典型的な論者を呼んでも、『こういえば君ら喜ぶんだろう?』と見え見えのことしかいわない。これは正直退屈だし、もっとほかの話が聴きたい」と。 そこで主催者は、著作を読んで共感した著者を読んだわけだ。それはつまり、読み手も是々非々の立場を求めていることを意味する。特にネット上では極端な意見ばかりが目立つが、そういう人ばかりではないということだ。 たしかに「右でも左でもない」は空疎に響く。その傾向はとどまるところをしらない。だが、両極化しやすい世界に流されず、バランスよく自由にやっていくためには、これ以外の選択肢はない。(241ページより) もちろん著者は書き手としての立場からこう主張しているわけだが、これは文筆業者だけに当てはまる話ではない。職種などに関わらず多くの人々に、極端な方向に偏りすぎないバランス感覚が求められているのだ。 その感覚を身に着けることができれば「右でも左でもない」というスタンスに自分なりの重みが加わるのである。 『超空気支配社会』 辻田真佐憲 著 文春新書 (※画像をクリックするとアマゾンに飛びます) [筆者] 印南敦史 1962年生まれ。東京都出身。作家、書評家。広告代理店勤務時代にライターとして活動開始。現在は他に「ライフハッカー[日本版]」「東洋経済オンライン」「WEBRONZA」「サライ.jp」「WANI BOOKOUT」などで連載を持つほか、「ダ・ヴィンチ」などにも寄稿。ベストセラーとなった『遅読家のための読書術』(ダイヤモンド社)をはじめ、『世界一やさしい読書習慣定着メソッド』(大和書房)、『読んでも読んでも忘れてしまう人のための読書術』(星海社新書)、『人と会っても疲れない コミュ障のための聴き方・話し方』(日本実業出版社)など著作多数。新刊は、『書評の仕事』(ワニブックス)。2020年6月、日本一ネットにより「書評執筆本数日本一」に認定された。
Source:Newsweek
「典型的な論者を呼んでも、正直退屈」と講演会で打ち明けられた著述家が、「右でも左でもない」を目指す理由