01.31
ある「カレー屋さん」が、街頭募金に立ち続ける一つの理由。クーデターから3年が経ったミャンマーにかける思い
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「初めて訪ねた時に、ミャンマーが1番好きな国になったんです」
ミャンマーカレーに惚れ込み、日本でミャンマーカレーの普及に力を注ぐ人物がいる。
ミャンマー料理研究家の保芦宏亮さんだ。日本でレトルトのミャンマーカレーを販売する傍ら、 軍政下で苦しむミャンマーの人々を支援する活動を続けている。
活動を始めたきっかけは、2021年2月1日にミャンマーで発生した軍事クーデター。大好きな国での商品発売に向け、準備のためにちょうど現地に滞在していたところだった。
2024年2月1日で、クーデターから3年が経った。日本では人々の関心が薄まってきているのを感じつつ、保芦さんはミャンマー支援の街頭募金に立ち続け、カレーを通してミャンマーを知ってもらおうと奔走している。
ピーナッツオイルの香りとスパイスのパンチ、じっくり炒めた玉ねぎの甘さ……。
保芦さんが3年かけて完成させた「HIROSUKE CURRY」のミャンマー風チキンカレー・チェッターヒンは、多くの日本の“カレーファン”にも愛されている。
保芦さんは今ではミャンマー料理研究家としてカレーを生業にしているが、20年前は僧侶だった。浄土真宗本願寺派の寺に10年間勤め、副住職も務めた人物が、なぜ「カレー屋」になり、そしてミャンマー支援に力を入れているのか。
全てのきっかけは、バックパッカーとして訪れたミャンマー、そしてカレーとの出会いだった。
「自由になるんだ」民主化への希望とエネルギーが溢れていた
保芦さんがミャンマーを初めて訪れた2011年は、前年秋にアウンサンスーチーさんが当局の軟禁から解放され、軍の独裁政権に苦しんできた人々が民主化への希望を見出していた時期だった。
「街中の空気が、自分たちはこれから自由になるんだという希望に溢れていました。こんなにエネルギーが渦巻いている国は初めてだと思いました」
バックパッカーとしてたまたま訪れた国で、人々の優しさから食文化まで、全てに魅了された。
日本へ帰国後、飲食店で働きながらカレーの研究を始めた。 知り合いになった日本在住のミャンマー人にも頼み込み、それぞれの家庭のレシピを教えてもらった。
「たくさんのミャンマー人に教えてもらいましたが、みんなそれぞれの家庭でレシピが違い、全て違うのでどんどん迷っていくんです」
何度もミャンマーを訪れ、商品化に向けてカレーの開発を続けた。
2014年には、多くの人にミャンマーカレーを知ってもらうには、レトルトでの商品化が近道だと考えるようになった。3年がかりで、2017年にカレー製造を手掛ける株式会社「HIRO TOKYO」を起業した。
ミャンマーと日本を行き来する生活を続け、2018年にチキンカレー「チェッターヒン」の発売を開始。テレビや雑誌でも相次いで紹介され、人気を博した。
レトルトカレーは食品工場で炒められた玉ねぎが使われているのが一般的。一方、保芦さんのチェッターヒンは、生のスライス玉ねぎから自分たちで炒め、手羽元は2本入れるというこだわりが貫かれている。
日本での好評を受け、ミャンマーでも販売しようと、現地で馴染みがある「缶入り」のレトルトカレーをつくった。
商品3200個を用意して万全な状態で準備をしていたが、2021年、発売開始予定の8日前にクーデターが起きた。
街中に鳴り響く抗議の「鍋の音」。血まみれの人々の写真
2月1日の朝、目覚めるとスマホが鳴った。「クーデターが起こった」という知らせだった。
1番最初に感じた感情は「怒り」。
「人々の暮らしが突然にして奪われたという怒りが湧き上がってきました」
混乱する人々。友人やお世話になっている人たちが苦しんでいる状況を目の当たりにした。
当局は、ネットや電話を遮断。人々は、情報収集や安否確認をする手段も絶たれた。
ミャンマーでは、1962年に軍事クーデターが起こってから50年以上にわたり軍が政治支配をしていた。しかし、2015年の総選挙でアウンサンスーチー氏が率いる国民民主連盟(NLD)が勝利。
2020年の選挙でもNLDが再び圧勝し、人々が政治に希望を感じていた中で、またクーデターが起きた。
人々は軍に抗議の声を上げ、街中で若者を中心としたデモが繰り広げられた。
デモに参加する人々は非武装だったが、軍は無抵抗の市民に銃口を突きつけ、多くの犠牲者が出た。
クーデター発生後に完全に遮断されていたWi-Fiは、徐々に夜間以外は使えるようになった。
「朝9時になるとまたネットが繋がるので、情報収集しようと朝起きてすぐにFacebookにアクセスするのですが、タイムラインに流れてくるのは、デモで撃たれ血まみれになった人の写真や、誰が拘束されたかという情報ばかり。毎日涙が溢れ、怒りに震えていました」
人々は夜になると鍋やフライパン、皿を叩いて、軍に抗議をした。
「街中が揺れているかのような音が響いていました。皆の怒りを感じました」
保芦さんはクーデター発生後も83日間ミャンマーに滞在していたが、遂に4月、帰国を決意した。
きっかけの一つとなったのは、親しかった友人の逮捕。友人は抗議活動の撮影などを理由に取り締まりの対象となっていた。友人の捜査の過程で、保芦さん自身も「軍がお前のことを探していたぞ」と言われた。
不安定な情勢の中、周囲のミャンマー人に支えられて日々を送っていたが「周りに迷惑をかけられない」と帰国を決めた。
ミャンマー人の友人との約束。日本で継続する支援活動
後ろ髪をひかれる思いで帰国した後、強い思いを持って続けていることがある。
街頭募金などミャンマー支援活動への参加だ。街頭募金は帰国後、250回程参加してきた。
忙しくても、仕事の合間を縫って参加し続ける背景には、ミャンマーの友人たちとの「約束」があった。
「弾圧が激しいミャンマーでは、抗議の声を上げたくても上げられない状況がありました。友人たちに代わって、自分が日本でがんばると約束したので、ずっと続けて参加しています」
ミャンマー国内では、国軍に抗議の声を上げた多くの人々が拘束された。拷問に苦しみ、殺害される若者も。国内では、国軍の攻撃について言及した募金活動などもできないため、国外から被害者らをサポートしている。
特に地方では、国軍の攻撃で破壊された村の人々が先が見えない避難生活に苦しんでいる。
また、2023年5月にミャンマー西部を襲ったサイクロンの被災者は100万人とも言われているが、軍政の被災地への対応はずさんで、復興支援の目処は立たないままだ。
日本で働くミャンマー人や留学生らが、週末などに都内の高田馬場駅前や新宿駅前、錦糸町駅前などの街頭に立ち、苦しむ祖国の人々を少しでもサポートしようと、募金を呼びかけている。
ミャンマー人たちの思いに共鳴し、保芦さんも、灼熱のごとく暑い真夏でも、北風が吹く極寒の真冬でも、人一倍声を張り上げて一緒に路上に立ってきた。
募金活動を通して繋がった、ミャンマーの各民族の集まりなどにも頻繁に顔を出している。
「カレーとクーデター」のテーマで講演。「知ってほしい」の思い
クーデター発生直後に比べ、ニュースでミャンマーの話題が取り上げられることも減っている。少しでも現状を「知ってほしい」と、「カレーとクーデター」をテーマに大学などでの講演活動も続けている。
レトルトカレーの売り上げを寄付したり、イベントでカレーを販売する際も、募金箱を設置したりしている。
カレーも、チキンカレーのチェッターヒンに加え、ポークカレーのウェッターヒンを発売。それぞれ、極辛とマイルドがあり、チェッターヒンには贈答用パッケージの濃厚辛口も用意した。
ベジタリアン向けのカレーも開発中で、今年はさらに多くの人に手に取ってもらえるよう、価格帯なども多様化した商品を開発していくという。
以前は「ミャンマーを自分のビジネスに利用している」と批判されることもあった。
しかし、保芦さんのミャンマーとカレーにかける思いは、募金活動を共に行う在日ミャンマー人の仲間が一番知っている。
世間の関心が低くなろうと、変わらず毎週のように、街頭募金に足を運ぶ。
ミャンマー人の仲間たちと共通して抱いているのは、「ミャンマーに早く平和が戻ってほしい」という強い思いだ。
「現地にいるミャンマー人の友人とも、オンラインで通話しては、早くそんな日が来るといいねと話しています」
ミャンマーの人々がいつも口を揃えて言うのは、「忘れ去られること」の怖さ。世界からの関心が薄れるほど、国の将来への不安は募る。
近い将来、ミャンマーの人々の生活に平和が戻るまで、保芦さんはミャンマーの人々と共に活動を続ける。
Source: HuffPost