01.21
柏木陽介は自ら「壊れ続けた」。新型コロナに蝕まれたスター選手の転落と再生
2023年12月2日、岐阜県・岐阜メモリアルセンター長良川競技場。
試合後のピッチで、FC岐阜・柏木陽介が用意されたマイクの前に立った。
この試合を最後に、現役を引退すると発表していた。
サポーターへ向けたあいさつ。その半ばで、ひときわ声を張った。
「僕は来年以降、このチームに残り…」
スタンドからどよめきが起きた。
反応をひとしきり待ってから、言葉を続ける。
「FC岐阜と岐阜県を盛り上げていけるように努めていきたいと思っています!」
低いどよめきが、甲高い歓声に変わる。
すごい!本当に?そんな声があちらこちらから上がった。
かつての日本代表。ビッグクラブの浦和では長年司令塔を務めた。
そんなスター選手が、引退後もチームスタッフとして、J3のクラブに留まるという。
しんみりとした別れの雰囲気は一変した。
陽介こそ救世主。セレモニー後も沸き続けるスタンドを背に、柏木はポツリと言った。
「救ってもらったのは、むしろこっちやからね」
走れるファンタジスタ。
そんな二つ名とともに、柏木陽介は全国区になった。
2007年。
広島でプロデビューした直後の19歳は、オシム監督率いるフル代表の強化合宿メンバーに抜擢された。
カナダで開催されたUー20W杯にも、世代別日本代表の一員として出場。
人気と実力を兼ね備えた「調子乗り世代」の中心として注目された。
左足キックの精度は高く、視野も広い。
身体が細く見えることもあって、古典的な司令塔タイプのように見えた。
だが柏木は新しい時代の選手だった。
ボールがないところでも。守備の局面でも。決して速くはないが、とにかく走りまくる。
時代の要請もあって、サッカーシーンの中心に躍り出た。
2010年には浦和に移籍。2011年には日本代表の一員として、アジアカップ優勝も経験した。
2016年にはキャリアのピークを迎え、チームを年間勝ち点1位に導いた。
日本代表への定着こそならなかったが、衆目が認める国内最高レベルの司令塔だった。
2017年には、アジア・チャンピオンズリーグで浦和を優勝に導いた。
個人的にもMVPを受賞した。
それでも本人は「悔いしかない」という。
この年はシーズン半ばに、ペトロビッチ監督が成績不振から解任された。
チームの主力として、そしてプロ入り以来の愛弟子として、柏木は責任を感じていた。
せめて恩に報いたい。
アジアで勝っただけではまだ、埋め合わせにならないような気がした。ガラではないと思いつつも、2019年には主将も引き受けた。
相次ぐケガで出場機会を減らしたが、それでも必死にチームをもり立てた。
だがその心が折れてしまうことが起きた。
2020年。ケガが全快した柏木は、開幕の湘南戦に先発出場。
1年を通して活躍し、今季こそJ1優勝をーー。モチベーションも例年以上に高かった。
その直後、コロナ禍が日本を覆った。
リーグ戦はおよそ半年にわたって中断した。
7月。試合再開に向けて精力的にトレーニングに取り組んでいたさなか。
柏木はひとり、首脳陣に呼び出された。
そして、こう告げられた。
うちはこれから、若手を中心に新しいサッカーをやるーー。
中断明けの横浜F・マリノス戦。
柏木は先発を外され、そのまま最後までベンチで試合を見守った。
その後も夏場の連戦の中で“ターンオーバー起用”をされるにとどまった。
他の選手の疲労を鑑みて代役を任される、ということだ。
プロは実力だけがものを言う世界。それは重々わかっていた。
自分も力で評価を覆すことで、ここまでのし上がってきた。
つらかったのは、それが「あらかじめ決まっていた結論」ということだった。このサッカーなら自分でもできる。そう感じて、練習から必死にアピールをした。だが早々に「そういう問題ではない」と感じるようになった。
誰も自分を必要としていない。うとまれてすらいる。
一足飛びに、そう思うようになってしまった。
◇
異変を真っ先に感じたのは、妻の渚さんだった。
練習、行きたくないなぁ。
ある朝、家を出る直前の夫が、そんなことを言った。
出場機会にめぐまれていないことを、自らネタにしている。
従来のキャラからすれば、そういうふうに聞こえなくもなかった。
だが渚さんは、ハッとなって「大丈夫?」と呼びかけた。
「大丈夫やで、いってくるわ」。そう応える表情をみて、さらに疑念を深めた。
かつて報道機関で働いていたことがある渚さん。
情報番組などでも取り上げた、うつの初期症状。それがぴったりと、夫の姿に重なった気がした。
すぐに調べものをはじめる。知人に相談もした。
そして帰宅した夫を「病院に行きましょう」とさとした。
心療内科での診察の結果、オーバートレーニング症候群という見立てになった。うつのような状態に陥ったアスリートに下される診断だ。
◇
コロナによる取材制限で、内情が表に出にくい状況ではあった。
チームとは、診断内容を伏せつつ、数日の間は休養を取るということで話がまとまった。
休養明け。柏木はなんとか練習をこなしたが、ぐったりとした様子で帰宅した。
渚さんは悲鳴を上げそうになりながらも、必死に夫と向き合った。
「無理をしないで」
無理に頑張ってしまえば、症状は悪化する。
選手としてどうこう以前に、健康に深刻な影響を及ぼす。人生そのものに関わってしまう。それは医者からも強く言われていた。
今は腹筋だけでも、ランニングだけでもいいの。毎日そう言い含めて、渚さんは柏木を送り出した。本当なら行かせたくない、と思いながら。
練習場にあらわれるものの、ほんの少ししかトレーニングをしない。
それでも古くからの同僚は、なんとなく事情を察してくれた。
だが、そういう選手・スタッフばかりではない。
まともな練習もせず、あの人はいったい何をしているんだーー。そう思われるのも、仕方がなかった。
できる限りのことをすればするほど。
断絶の材料は、かえって増えるばかりだった。
オフが来るたびに、夫は「どこに行こうか」と言ってくれていた。
仕事を辞めて支えてくれている妻への気遣いを、柏木は欠かさなかった。
それよりも今は、気晴らしをしてほしい。
「お友だちと出かけてきたほうがいいよ」。渚さんはそううながすようにした。
間の悪いことに、ある時その様子が写真週刊誌に取り上げられてしまった。
不倫を匂わすような見出しをつけられたこともあって「あいつは何をしているんだ」と批判にさらされた。
「何を言われても、仕方ないとは思います。国民みんなが我慢をしていた時期でもありますし…」
渚さんは静かに振り返る。
クラブが中長期の方針を持つのも、当然のことだと理解もしている。
「ただ、あの人は今まで感じたことのないような無力感を覚えていたと思うんです。せめて、自分から『実力で劣るから仕方ない』と思えるようであれば…」
それならば、プロとしてのプライドにかけて、彼はその事実を素直に受け入れたはず。
そう感じている。
◇
何かを突きつけられるには、時期があまりにも悪かった。
コロナ禍が蝕んだものは、ウイルスに侵された呼吸器系だけではなかった。
コミュニケーションが極端に制限される中で、世の中の多くの人が心のバランスを失った。
この状況なら、いっそ他のクラブに。
そういう選択肢が、柏木にもあってもよかった。
だが当時はそれが思い浮かばなかった。
ポジション争いに負けて移籍をする。
それは自分の価値を決定的に損なう選択のような気がしてしまった。
「負け切った感触」を持てていなかったことも影響したかもしれない。
たとえ勝ち筋がなくても、最後まで自分側に原因を求めて戦うべき。生真面目にそう思ってしまうところもあった。
そして何より、である。
自分は愛する浦和で現役生活を全うし、その後もクラブに人生を捧げる。ずっとそう考えていた。
そんなことはない。他にも活路はある。
そう声をかけてくれるべき周囲との間には、コロナが障壁をつくっていた。だからこそ、思い込んでしまっていたのだろう。
このトンネルに、出口などない、と。
◇
自ら求めて、壊れ続けていくようにすら見えた。
2021年1月。
柏木はキャンプ期間中にチームメイトと無断で外食をしたとして、謹慎処分を受けた。
キャンプ地の沖縄はコロナ禍真っただ中。チームも外食を禁じていた。
規律違反はサポーターだけではなく、多くの人々の怒りを買った。
現地で友人が経営する飲食店が、コロナの影響でつぶれそうになっていた。
自分だけでも力に、と思い、訪店してしまった。
オレにも立場がある。
そう言って見過ごすべきだと、頭ではわかっていた。だが、その時の柏木にはそれができなかった。
「長いキャンプでストレスも感じていた」
そんな本人のコメントにも批判が集中した。
ネットには「キャンプが長いのは他の選手も同じだろう」という声が満ちていた。
この組織の中にいるだけで辛い。
そんな特有の事情については、誰も知る由はない。
「もうええねん」
心配する旧知からのLINEメッセージにも、こう返した。
すべてを投げ出してしまったようだった。
数日後。
浦和レッズとの契約が解消されることが発表された。
Source: HuffPost