01.19
20代のヌードモデルだった私に写真家が申し出た「親切」は、痛みを伴うものだった
(編注:この記事には性暴力の描写が含まれます)
私のモデル時代のポートフォリオには、アダルト雑誌の写真がたくさん含まれています。
ガーターベルトとハイヒールで撮影した、20年前の雑誌の表紙もあります。
この時の撮影で、図書館の司書役を演じた私は、髪をまとめ、タイトスカートを床に脱ぎ捨て、ブラウスのボタンを外した状態で足を広げてカメラに向かって微笑んでいます。
四つんばいの状態で、手に持った黒いピンヒールに向かって舌を出している写真もあります。
カウボーイハットと薄いデニムのベストだけを着てカウガールになった写真もあれば、「今月の女の子」に選ばれた別の雑誌のインタビューでは、身長が実際より15センチ高く書かれ、セックスをエクササイズとして楽しむ大学生だと紹介されています。
この時の撮影で、私は太ももまであるストッキングしか履いておらず、足を広げてカメラを悪びれることなく見つめています。
自分が何をやっているのかわかっていました。お金が稼げる仕事だった。写真を見た人は、私が望んでやっていると思っていたことでしょう。
この仕事をしていた20代の時に、ある写真家に出会いました。
シカゴにあったその写真家の撮影スタジオは、床から天井まで届く窓がある風通しの良いコンドミニアムで、明るい光が差し込み、内装を変えればどの部屋も撮影セットになりました。
撮影には常に女性のメイクアップアーティストがいて、私が完璧に見えるように気を配ってくれていると感じていました。
その写真家と仕事ができることに感謝していました。それまで何年もヌードモデルをしてきましたが、ほとんどが小さな仕事で、時には報酬が良いアマチュアの写真家と撮影することもありました。
その写真家は社会的な地位がある人で、彼と働くことで、私は自分が重要な存在で、特別なチームの一員だと感じることができました。
当時私は独身で、母との関係はギクシャクしていました。
母は私が13歳の時に、虐待的でアルコール依存症のボーイフレンドと私のどちらかを選ぶよう求められ、私を養護施設送りにしました。その後の何十年も、娘が自分を選んでくれる人を探し続けるようになるなんて、母は思っていなかったでしょう。
その年、私はその写真家と何度も一緒に仕事をして、ある種の友人になりました。
私は注目を浴びることや着飾ることが大好きで、彼は時間を守り、薬物を使用せず、気取らないモデルと仕事をするのが好きだったのだと思います。
当時、私は時折気分の落ち込みを経験していましたが、それがパニック障害の発作だとは認識していませんでした。
他に家賃を払う方法を知らなかった私は、18歳で養護施設を出てからヌードでお金を稼いでいました。
仕事の経験がなかったため、自分を雇ってくれるのは写真家だけだと信じていました。30歳を過ぎればこの仕事は続けられないだろうとわかっていましたが、その考えから目を背けていました。
ある時、その写真家と私の将来について他愛もない話をしました。
年配のモデルを起用する雑誌もありましたが、大抵はポルノで、女性はいつでも男性と一緒に写っていました。
私にはポルノをやったことがなかったし、そこまでする気もありませんでした。だけどこのまま何もしなければ、将来どうなるかもわかっていました。
パニック発作が起きることもありましたが、人には話していませんでした。当時はパニック障害という名前がなかったこともあり、うつ病だと思って無視しようとしていました。
私にとって、撮影は目的のための手段でもありました。モデル業界では、雑誌に出ることは履歴書を作るようなもの。撮影をきっかけに、雑誌の仕事が増えてほしいと願っていました。
その写真家は、セントラルキャスティングに応募してはどうかと提案してくれました。
思わず笑いました。セントラルキャスティングは、広告や映画、テレビに出演する俳優を紹介する大手エージェンシーです。私がいくら雑誌の表紙を飾っていたとしても、ヌードモデルでは何の意味もない。
セントラルキャスティングのモデルは服を着ているし、応募には、プロのモデルとしてのポートフォリオが必要でした。
大手エージェンシーのモデルと競える写真を撮影するためには、1000ドル以上かかる。衣装やメイクアップアーティスト、腕のいい写真家、印刷代…それを考えると、無理だと思ったし、誰に頼んだらいいかもわかりませんでした。
しかしその写真家が、無料で撮影してくれると言ってくれたのです。
それは私にとって、脱出チケットでした。見知らぬ人の前でヌードになるのをやめられる…!
彼が私を気にかけてくれていることに、心から感謝しました。
撮影日を決めてデパートで服を買い、『グッドハウスキーピング』や『シェイプ』のような女性誌を読んで、明るいキッチンでミキサーとミールリプレイスメント入りの容器を手にしてポーズをとる自分の姿を空想しました。
こういったモデルには、いつもとは違う「私の人生は幸せで、この商品は素晴らしい」と伝える笑顔が必要です。
私は長時間、鏡に向かって微笑む練習をして顔の感覚を記憶し、鏡を見ずに満足のいく笑顔ができるようにしました。
そして、普段は着ないような数々の衣装を持って、撮影に臨みました。
化粧はほとんど必要ないという印象を与えるようなナチュラルメイクをして、どんな広告もこなせると言わんばかりに、さまざまな服装でポーズをとりました。
葉野菜を入れたザルを持つ姿、ヨガパンツとお揃いのスポーツブラでストレッチ、白いコーヒーカップと日記を手にしたポーズ。パンツスーツ姿もあれば、キラキラと輝くイブニングドレスにクリスタルのイヤリングをあわせた姿も撮影しました。
すべての写真にストーリーがあり、相手が買いたくなるようなアピールをしながら、憧れの人物像を描くようにしました。
モデルエージェンシーにどんな広告にも出られるほど多才であることを伝えつつも、親しみやすさを感じさせる可愛い女の子を演出。
このポートフォリオを通して語られる私の人生は、麦わら帽子を被って一輪のガーベラを持つ写真の窓から差し込む太陽の光のように、明るく純粋でした。
メイクアップアーティストやアシスタントがいない撮影は初めてでしたが、私は写真家と二人っきりでいることに慣れており、何とも思っていませんでした。
このポートフォリオの最初のページで、緑のドレスを着て籐のラウンジチェアに座っている写真があります。
背景はぼんやりとしていますが、後ろにはレンガの壁と大きな鉢植えの植物があるのがわかる写真です。
この緑のドレスの写真を撮影している時に、写真家が冗談でアップ写真を撮るかのように近づいてきました。
雰囲気が変わったのを覚えています。彼が近づいてきた時「鹿がヘッドライトに驚いた」時のような気持ちになりました。彼は私の体に手を置きました。
この後の展開には、いくつかの可能性があったと思います。
一つは彼を押しのけ、荷物をまとめてスタジオを去り、家に帰る。
二人が恋に落ちて結婚し、私は車より高いウェディングドレスを着て、幸せな結婚生活を送る、という展開もありえたのかもしれません。
彼がいつ、カメラのシャッターを押すのをやめたのかは覚えていません。
気づいた時には私は椅子に横たわり、天井を見つめ、写真家の頭は私の足の間にありました。
私は頭の中で、その事件をハエのフンの染みのようなものと処理して、家に帰りました。自分のような立場の女性には、見返りが求められる可能性もあるのだろうと理解しましたが、再び彼と撮影することはないだろうと思いました。
数週間後、私はポートフォリオを受け取ってすぐに帰り、狭いアパートのソファに座って写真を眺めました。
彼は私を別人のように変身させていました。愛情深い両親を持つ、お金持ちの家庭に生まれたかのような女性の姿が写っていました。
結局キャスティング・エージェンシーにポートフォリオを送ることはありませんでした。
送らなかったのは、自分が実力不足だと思ったからです。「実力がある」と「魅力的」は別。児童養護施設にいた過去も、お金のためにヌードの仕事をしていたことも見抜かれるだろうと思いました。
私はポートフォリオを、手の届かないクローゼットの一番上の棚に仕舞い込んで、見ないようにしました。
1時間100ドルの撮影をする自分の生活に戻り、請求書の支払いや洗濯、買い物、時にパニック障害の発作を起こしながら数年後に30歳になり、大学に入りました。
引っ越しとともに、あの写真家が撮影したものと、雑誌の切り抜きを集めた私の2つのポートフォリオは、アパートからアパートへと移りましたが、その度に椅子を使わないと手が届かない、寝室のクローゼットに置いていました。見えなければ、気にならない。
自分がやっていたことが「正常化バイアス」という言葉で表現されることを知りませんでした。自分が、家庭内暴力で育った子ども時代からずっとやっていたことにも気づいていなかった。
#MeToo運動が勢いを増した時、私は自分の経験を語るよりも、無視することを選びました。
#MeTooの女性たちは加害者を非難することができたけれど、私は自分に起きたことは、自分のせいだと信じていました。長い間埋もれさせていたことを蒸し返したくなかったのです。
しかしある日、アザを指で押したくなるような奇妙な衝動に駆られ、あのポートフォリオの中身を見ずに、写真を頭の中で思い返してみようという気持ちになったのです。
ベビーピンクのリップグロスを塗って、柔らかな照明の中で撮影した顔写真。でも、緑のドレスを着てラウンジチェアに座っている自分を思い出すと、気分が悪くなりました。
パニックと不安は、いつも胸骨の付け根にある穴から湧き出してくるように感じていました。この穴は何なのだろう。
自分が何を感じているのか理解できなかったので、私は棚からポートフォリオを取り出してみました。
見たら解決するかもしれない。何年も経った今になって、なぜあの写真家が私にしたことで、苦しい気持ちになるのだろう。
パニック発作を起こしたり、自分自身を嫌な気分にさせたりしながらも、何年もヌードモデルを続けられたのはなぜだったのか考えてみました。
私は物事を区分するのが得意でした、すっぴんで図書館やジムに行く時の自分と、メイクをしてハイヒールを履いている時の自分を、別人のように感じていました。
自分の中で2人の人間が同居しているわけではないと知っていたけれど、メロドラマのような詩を書き、友人が欲しいと思っていた時の若い私は、緑のドレスを着た自分と同じような鎧を持っていなかった。
アダルト・コンテンツというと、多くの人たちはいかがわしい人物や違法な行為を思い浮かべるかもしれませんが、私の場合はそうではありませんでした。
広々としたマンションを持ち、プロのメイクアップアーティストを雇っていたあの写真家は、私がこれまで撮影した中で最もプロフェッショナルなチームでした。
同時に、今までで最も露骨さを求められる仕事でもあったので、自分を変えられなければ、限界をはるかに超える撮影を求められるようになるだろうとも思っていました。
それから数年後に、私はビジネスの学位を取ってモデル業界を去り、見た目を求められない仕事に就きました。それまでずっと目立とうとしてきた私は、周りに溶け込むことができてホッとしました。
あの写真家は、何人のモデルに協力を申し出たのだろうと思うことがあります。私はそのうちの一人だったのでしょう。
アダルトコンテンツに携わるすべてのモデルの気持ちを代弁することはできませんが、私たちのほとんどが、業界で友人となってくれる人を見つけると感謝します。
しかしあの写真家は、信頼できる友人として、将来に不安を感じていた私を助けてくれるのではなく、権力を濫用しました。
あの時の恐怖と無力感は、着ていたドレスと同じくらいはっきりと覚えています。
その感情は、「実力がない」という考えが私の頭の中だけだったのだということを思い出させてくれます。そして、私にはノーと言える力があり、助けの手を差し伸べてくれたすべての人が、実際に救ってくれるわけではないということも。
注:プライバシー保護のため、エッセーに登場する人物の詳細を一部変更しています。
ハフポストUS版の寄稿を翻訳しました。
Source: HuffPost