2021
08.11

2012年震災後の危機感と2021年コロナ禍の危機感、この間に何が変わったか

国際ニュースまとめ

<創刊35年の論壇誌『アステイオン』が、2012年の前回から約10年を経て、「今、何が問題か」という同じテーマで特集を組んだ。そこから見えてきた専門知のあり方、アカデミズムとジャーナリズムの役割、世代論とは? 編集委員らによる座談会より> 1986年創刊の論壇誌『アステイオン』(公益財団法人サントリー文化財団・アステイオン編集委員会 編)では、2012年の76号で「今、何が問題か」と題する特集を組み、当時の編集委員が寄稿した。 それから約10年を経て、今年5月に刊行された94号の特集は「再び『今、何が問題か』」。新旧の編集委員が全員、筆を執っている。 なぜ、同じテーマの特集を再び組んだのか。そこから何が見えてきたのか。 7月、編集委員長の田所昌幸・慶應義塾大学教授、新編集委員の武田徹・専修大学教授、前編集委員の苅部直・東京大学教授、担当編集者の小林薫氏による座談会「アステイオン・トーク」(主催:サントリー文化財団)がオンラインで行われた。 震災後からコロナ禍へ、専門知のあり方、世代論、ジャーナリズムとアカデミズム……。座談会で交わされた議論のエッセンスをお届けする。 「アステイオン・トーク」に出席した編集委員長の田所昌幸・慶應義塾大学教授、新編集委員の武田徹・専修大学教授、前編集委員の苅部直・東京大学教授、担当編集者の小林薫氏(左から) Photo:サントリー文化財団 ◇ ◇ ◇ ■田所 『アステイオン』はこのたび、編集委員を交代しました。前編集委員体制がスタートした2012年に、「今、何が問題か」(76号)という特集を組みました。そしてほぼ10年経った今回、新しい編集委員会が発足したので、そのお披露目という意味も込めて、「再び『今、何が問題か』」を特集テーマに新旧の編集委員全員に書いて頂きました。 あえて弱い縛りで企画しましたが、それでもこの94号全体に通底するものがあると思います。まずは武田先生からご感想をお願いします。 ■武田 新編集委員の編集会議は2020年10月だったのですが、その頃はコロナの第2波が少しは落ち着いた時期でした。その後、第3波、第4波と非常に厳しいコロナの状況下で書いているので、背景にはコロナの暴風雨があります。 ただし、その多くはコロナにストレートに当てた論考ではありません。田所先生が巻頭言で書かれていたように、やはり暴風雨の中でも、スケールの短い議論ではなくて、できるだけ長く歴史と社会を見渡すような議論をしようという姿勢が通底していると私は感じました。 ■田所 苅部さんは、どうでしょうか。 ■苅部 この特集の諸論考を読んで、もっとも衝撃的だと感じたのは、田所先生のご論考「未来を失ったわれわれの希望」で紹介されている、内閣府による世論調査の「現在の生活に関する満足度」のグラフです(103ページ)。 これを見ると、戦後、日本国民の満足度が最低だったのは1974年1月です。バブル崩壊の後も、リーマンショック後も、東日本大震災の後も、そして現在も、日本国民の満足度は74年よりずっと高い。 74年は石油危機の直後ですし、新左翼過激派による爆弾テロも頻発したころですから、たしかに不安な時代だった。しかし現在だって、世界ではリベラルな国際秩序の衰退、テロリズムの横行、中国の脅威、コロナウイルス、経済格差など問題は山積みなのに、なぜか満足度は高い。 客観的にはさまざまな危機に囲まれているにもかかわらず、人々が不満を抱いていないという、奇妙に不透明な社会状況になっている。この状況のもとでどういう方向をめざすのか。それが、特集の多くの論文に共通するテーマになっていると思いました。 ■田所 小林さんはどうでしょうか。 ■小林 実は編集しているときには、特集ではそれほどコロナについて言及されていないと思っていました。でも改めて読み返してみると、それぞれの先生がやはりコロナに言及されていたことに気づいて、どうして言及されていないと自分が思い込んでいたのかと考えているところです。 大変な問題ではあったのだけれども、根底を揺るがすような大きな事件ではなかったのかもしれないと考え始めています。 ===== Photo:サントリー文化財団 この10年の変化 ■田所 前回の「今、何が問題か」(76号、2012年)のときは、東日本大震災という明らかな大危機があり、復興というはっきりしたゴールがありました。それに加えて福島第一原発の事故は、「日本のやり直し感」が強かったと思います。 それに比べると今回は、コロナという危機状況はありつつも、切迫感は相対的に少ない。不満というよりも不安が大きいのではないかと思いました。 例えば、エコノミストの土居丈朗先生の論考では、財政問題に焦点をあてて「何とかしなければいけないけれども、どうしていいのかよく分からない」という様が書かれていました。コロナの問題で、財政が一層傷んだことは間違いない。しかし、そこからどうなるかということについては不確実性が強い、と。 武田先生は、過去10年間を振り返ってみて、何が変わったと思いますか? Photo:サントリー文化財団 ■武田 76号と94号の2つの特集は、このことについて考えるいい素材になっていると思います。私が田所先生の巻頭言を読んで連想したのは、古市憲寿さんの『絶望の国の幸福な若者たち』(講談社、2011年)という本です。 「未来に対して希望を持っていますか、絶望しますか」と聞くと、ほとんどの若者は絶望しているけれども、「今、幸せですか」と聞くと、「幸せ」だと答える。それがなぜかというところから始まり、結論ではネットワーク性に触れています。つまり、若い人たちは人間関係がうまく築ければ、幸福感を覚える。 しかし、今回のコロナではオンライン化こそ進みましたがリアルな対人関係がリスク源として忌避されているのであり、やはり次の危機が徐々に見えてきていると思いました。 ■田所 サントリー文化財団の国際研究プロジェクト「グローバルな文脈での日本(Japan in Global Context: JGC)」でも、2013年にHappinessというテーマで議論しました。 その中で京都大学で社会心理学を教えられている内田由紀子さんが仰っていたのは、日本人に幸福度を10段階(最大10、最低1)で「どれが望ましい幸福の水準か」と聞くと、6または7と答えるという話でした。一方、アメリカ人に聞くと、「そんなの高いほうがいいでしょう。10です」と返答する。 私も毎年、学生に聞いていますが、そうすると、やはり6や7くらいの返答が返ってきます。どうも日本人はあまりハッピーだとよくないと思っているのではないかと。 近年、私が学生を見ていて気になるのは、高い教育を受けて多くのことにチャレンジできるにもかかわらず、あえてリスクを取ろうとしないということです。そうなると、ますます社会全体が縮小して、今まで我々の幸せを支えていたものを持続すらできなくなるのではないかと心配しています。 人間社会の悩ましさではありますが、「満足できればそれでいい」ではなく、不満が社会を動かす力にもなりますよね。 ■武田 その傾向は私も学生と接していて感じます。今の若い人は昔の学生に比べれば、かなり高い生活水準を達成しているようにみえます。その中でさらに情報化が進み、色々なシミュレーションができる。 そうなると、実は未来の可能性を狭めることになるのですが、いまの生活水準を維持するためにリスクは避けるようになります。 また、幸福に関しては、嫉妬もあるかもしれません。あまり目立ってしまうと、目立つこと自体がリスクになってしまう。ですから、5、6、7ぐらいが頃合いという感じなのではないでしょうか。 Photo:サントリー文化財団 ■苅部 日本は先進国の中では比較的に経済格差が小さく、高齢化で人手が足りないので失業率が低い。また欧米諸国のような移民問題が起きていない。そのせいで、新型コロナウイルスがさまざまな問題を起こしても、生活満足度や幸福度が大きく損なわれることはないのでしょう。 ただしコロナウイルス禍が長く続けば、これからは飲食業など中小企業の倒産が増えていくでしょうから、長期的には、「幸福だ」「満足だ」と言っていられるかどうか、わかりません。そこで社会にたちまち不安が広がる可能性があります。 また、世の中の現実と生活実感とが乖離した状況では、陰謀論やフェイクニュースが跋扈しやすい。その弊害をあらかじめ防ぐ手だてを考えなくてはいけないと思います。この問題に関しては、待鳥聡史さんの論考「専門知の居場所」が、専門家の知識が政策の決定にどう関わるべきかを論じていますね。 ===== ■田所 専門知の問題は、とりわけコロナの文脈で重要ですね。専門家とそうでない人は区別できても、専門家の間でも意見が常に一致するとは限らない。しかも専門家として語ることのできる領域はとても狭い。 それを総合していく知恵が必要になり、これは今回、苅部さんが「文系と『価値』、文系の『価値』」で書かれているように、いわゆる文系と言われる教養の在り方になるのだと思います。 くしくも待鳥さんも苅部さんも、「役に立たない学問」の意義を改めて検討されていて、我々が専門家に依存するとき、それをまとめていくものに対する需要が認識されたという印象を持ちました。小林さんはどうですか。 ■小林 今回、76号だけでなく、その周辺の号も読み返しました。先ほど田所先生が、東日本大震災は大きなショックだったと話されていましたが、76号、77号、78号の論調は、やはりどう発言したらいいのかという戸惑いを全体的に感じます。 一方で、まさに76号でジョナサン・ラウシュ先生が「二つのポピュリズムに揺れる米国」、マーク・リラ先生が2012年に「拡大するアメリカの格差」(77号)、2013年にアレクサンダー・スティル先生が「二極化するアメリカ」(78号)を書かれています。 実は編集していた当時、知識人が悲観的過ぎるのではないかと思っていました。しかし、その後4、5年たってトランプ政権が誕生したのを思うと、『アステイオン』で議論を先取りしていたのだと改めて思いました。 ■田所 今号で池内恵さんが「歴史としての中東問題」(ウェブに転載した記事はこちら:複合的な周年期である2021年と、「中東中心史観」の現代史)で、今年2021年は「アラブの春」から10年で、同時多発テロ事件から20年で、湾岸戦争から30年と書かれていて、冷戦後の時代というのは中東の30年として捉えられるのではないかと指摘しています。 そして、この10年の間にトランプ政権誕生やブレグジットのように、まさかと思っていたことが起こり、歴史は次の局面に移っていると思います。 ■武田 話が戻りますが、東日本大震災のときよりも今のほうが危機感は薄いと田所さんは仰っていましたが、私の実感は逆です。 当時、私は海外にいて、3月16日に帰国しました。3月下旬はかなり緊張感を持って家族と東京で過ごしていましたが、最悪のシナリオは起きないだろうと分かってくると、福島や海岸線の災害として地域的に段々限定されていき、ほとんどの人は危機感を失っていったと思います。 一方、今回のコロナは、全ての人が感染する、あるいは感染させるので、より偏在するリスクのような気がしていて、その点は感じ方が違います。 ■田所 その点ですが、海外と国内で異なる見方だったことが大きいかもしれません。実は私も震災後すぐにトロントで開かれる学会に行ったのですが、「もう日本は終わりだ」「文明的災禍だ」という論調でした。グローバルに見ると、原子力や放射能という文明的な一大ブレークダウンであると理解されていた印象です。 ■武田 そうですね。しかしやはり国内的には、割と早い時期にリスク感覚を失っていたと思います。リスクのある施設を地方に押しつけて、都市部は電力を消費するという位置関係がつくられていった、その歴史の中に原子力発電の問題があると考えています。 そこにある危機が、いかに時間と空間の大きな広がりの中に根を下ろしているかという、そういうことを『アステイオン』は論じるべきだと思います。 ===== 専門知と社会 ■田所 一方で、ジャーナリズムであれ、アカデミズムであれ、何らかの形で財政的な支援がなければ何もできません。出版業界も大学などの教育・研究機関も、今やビジネスとして成立しているのか、このまま持続できるのかを考えなくてはいけない。 そういったときに、財団は1つのオルタナティブになるのではないかと思います。『アステイオン』が論考のクオリティーを維持できるのは、サントリー文化財団という組織があるからです。とりわけコロナとの関連で専門知の在り方が問われている中で、何かお考えはありますか。 ■苅部 片山修さんの最新刊『山崎正和の遺言』(東洋経済新報社、2021年)では、サントリー文化財団の創設のさい、名前に「文化」を入れることに山崎さんがこだわったことが指摘されていますね。 専門家が読むことしか想定しない論文ではなく、社会の広い範囲にむけて学術の専門家が意見を述べ、世の議論を刺戟(しげき)していくこと。『アステイオン』が創刊以来担ってきた役割も、そういうものでしょう。 池内さんの「歴史としての中東問題」は、十年前は冷戦時代の思考枠組のなごりで、アラブの味方をしていれば知識人の顔ができたけれど、今やそうではなくなったとも説いていますね。 おもしろい指摘ですが、たとえば憲法論の世界では同じ変化は生じていない。憲法第九条を国民道徳のように崇拝し、そこに絶対平和主義を読みこんで護持しようとする姿勢が、冷戦期以来、常識として広く定着しています。そうした戦後の常識に対して挑戦し、社会と政治を新たな角度から見直すことを通じて、展望を切り開く。そういう試みを、『アステイオン』はこれまでやってきたのだと思います。 ■田所 苅部さんが仰たように、今後我々は、常識化しているものをもう一度問わなくてはならないと思います。先ほど言及された憲法9条もそうですが、恐らく戦後の日本人が全く疑ってこなかった価値は平和と繁栄だと思います。 現在、両方とも満たされたわけですが、「これでいいのか」と言われるとそうとは言えない。平和と繁栄を超えるような価値や、それを犠牲にしても達成しないといけない何かがあるということをもう一度問わないといけないと考えました。 それではまずは小林さんから、今号で一番印象に残った論考はどれだったでしょうか。 ■小林 私はやはり池内先生のご論考「歴史としての中東問題」が一番面白かったです。私が池内先生と共通しているのは、どちらも氷河期世代ということです。あまり自分たちだけが大変だったという言い方はしたくはないですが、やはり今の40代は労働市場に参入すること自体が本当に難しくて、人手不足と言われる今でも無視され続けていますよね。 ■田所 なるほど、世代論ですね。では、武田さんのお勧めはなんでしょう。 ■武田 先ほど、田所先生が疑われていない概念として「平和と繁栄」と仰いましたが、平和と繁栄が一番象徴化されているのが五輪ですよね。 今号では「品位ある社会の構築に向けて」で、中西寛さんが唯一、五輪に言及されていました。過去の成功例を引きずることによって、新しい生き方や考え方を導けないような、ある種の呪縛が五輪にはあると思います。 実は1964年の五輪にも色々問題がありました。開高健さんの『ずばり東京』(朝日新聞社、1964年)を読むとわかるように、東京を改造するために地方から出てきて行方不明になったり、亡くなったりした方々の犠牲の上に五輪の成功があります。 同じように、我々が感じている平和と繁栄というのを、もうすこし長い時間スケールの中で、今の日本の問題として考える論考として、よかったと思います。 ===== ■田所 苅部さんはどうですか。 ■苅部 今号の論考でインパクトがもっとも大きいのは、特集には含まれませんが、北岡伸一先生の「西太平洋連合を構想する」でしょう。 インドから東南アジア、オーストラリア、日本という範囲の国々が外交政策を統一して、EUに近い枠組を作るという構想。もしも現実に、日本の外交と国際社会がそういう方向へ向かったならば、後世からは画期的な議論として重視される文章になるでしょうね。 ■田所 私は武田先生の論考「言と行、言と文」での「言語行為論」というのが、とても面白かったです。言葉は単に何かあるものを描写するだけではなくて、語ること自身が行為である、と。その中で現在、政治の言葉が軽くなっているということを語られていました。 最後に、次号95号は武田先生が責任編集者なので、その構想を簡単にお願いいたします。 ■武田 まだ仮題ですが、特集テーマは「アカデミック・ジャーナリズム」です。ジャーナリズムとアカデミズムは水と油みたいに乖離しているところはあります。しかしジャーナリズムには速報や話題性を追うだけでなく、アカデミズム同様に歴史の審判に耐えるような仕事を理想としてほしいですし、専門性の象牙の塔に閉じこもりがちなアカデミズムには、ジャーナリズムを通じて成果を広く社会の中に開いてゆく姿勢が求められるでしょう。 そこで、アカデミズムとジャーナリズムの両方を橋渡しするような試みについて、あるいはそれを先駆けて実践している人たちにアカデミズムとジャーナリズムをどう考えているかといったことを書いて頂く特集になる予定です。 『アステイオン94』 特集「再び『今、何が問題か』」 公益財団法人サントリー文化財団 アステイオン編集委員会 編 CCCメディアハウス (※画像をクリックするとアマゾンに飛びます) 田所昌幸 慶應義塾大学法学部教授、アステイオン編集委員会委員長。1956年生まれ。京都大学法学部卒業。ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス留学。京都大学大学院法学研究科博士課程中退。博士(法学)。専門は国際政治学。主な著書に『「アメリカ」を超えたドル』(中央公論新社、サントリー学芸賞)、『越境の政治学』(有斐閣)、『社会の中のコモンズ』(共著、白水社)、『新しい地政学』(共著、東洋経済新報社)など。 武田 徹 ジャーナリスト、専修大学文学部ジャーナリズム学科教授、アステイオン編集委員。1958年生まれ。国際基督教大学大学院比較文化研究科修了。大学院在籍中より評論・書評など執筆活動を始める。東京大学先端科学技術研究センター特任教授、恵泉女学園大学人文学部教授を経て、現職。専門はメディア社会論。主な著書に『偽満州国論』『「隔離」という病い』(ともに中公文庫)、『流行人類学クロニクル』(日経BP、サントリー学芸賞)、『原発報道とメディア』(講談社現代新書)、『暴力的風景論』(新潮社)、『現代日本を読む─ノンフィクションの名作・問題作』(中公新書)など多数。 苅部 直東京大学法学部教授、アステイオン前編集委員。1965年生まれ。東京大学大学院法学政治学研究科博士課程修了。専門は日本政治思想史。著書に『光の領国 和辻哲郎』(岩波現代文庫)、『丸山眞男』(岩波新書、サントリー学芸賞)、『鏡のなかの薄明』(幻戯書房、毎日書評賞)、『「維新革命」への道』(新潮選書)、『基点としての戦後』(千倉書房)など。

Source:Newsweek
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