03.09
「スープとイデオロギー」のヤン ヨンヒ監督は、いかにして突破者になったか? その覚悟の凄みとオモニ
ヤン ヨンヒ監督の新作ドキュメンタリー「スープとイデオロギー」が評判である。2度、3度見たという人も少なくない。韓国でも10月から全国上映が続いている。何度も見たくなる映画というのはダシがよいからである。済州4.3事件、「総連バリバリの家庭」、北朝鮮に渡った3人の兄、新しい日本人の相棒、母の老い。そしてヤンさんの表現者としての葛藤と突破の覚悟も、ダシとなって染み出ている。「スープとイデオロギー」に至るまでに何があったのか?
◆朝鮮大学校の卒業生たち
私がヤン ヨンヒさんと初めて会ったのは1993年初めの寒い日の夕暮れ時だったと記憶している。朝鮮大学校の卒業生で構成する劇団「パランセ」(青い鳥の意)の大阪市内の稽古場を取材で訪れた時だった。中心俳優の一人だったヤンさんは、長い体躯を折りたたむようにして稽古に備えてストレッチをしていた。
稽古場には朝鮮語と日本語の混ざった、いわば「ちゃんぽん言葉」(彼らは「ウリハッキョマル」=わが学校言葉と言っていた)が飛び交っていて面食らったことを覚えている。「パランセ」はひとつの芝居を日朝二言語で演じるバイリンガル劇団を標榜していた。
メンバーたちの朝鮮語力はずば抜けていた。私と同世代の在日の中で最高の朝鮮語の使い手たちだったのは間違いないと思う。なんせ朝鮮総連(在日本朝鮮人総連合会)が「民族の最高学府」と位置付ける朝鮮大学校を出るまで、10年以上も朝鮮語漬けのキャリアがあるのだ。
この取材の前年の5月に南北朝鮮は国連に同時加盟し、対話も軌道に乗りかけていた時期だった。メンバーたちの口から「演劇を通じて日本人と在日の、南と北の懸け橋になりたい」という夢と展望が語られた。「総連系コミュニティ」のど真ん中で生きている同世代との出会いはとても刺激的だった。
一方で、「パランセ」のメンバーたちは窮屈さを吐露することがあった。朝鮮大学校は総連のエリート養成機関である。進路と言えば、総連関連団体や朝鮮学校の教員、あるいは同胞企業への就職が大半で、自営業をしている実家を継ぐケースが少々あるくらいだという。
もっと外の世界に出てみたい、自分を試したいと言うのだった。朝鮮学校を卒業する際の進路を総連の決定に委ねる「組織委託」が普通に行われていた時代だった。「演劇は初めて自分自身で選んだ進路」というメンバーもいた。
※ヤンさんは小説「朝鮮大学校物語」(角川文庫)で、「日本の中の北朝鮮」ともいわれる朝鮮大学校生の青春を、体験をもとに軽快に甘酸っぱく描いている。
紹介記事 https://book.asahi.com/article/11669155
◆映像の世界へ
ヤンさんが演劇の次に自分で選んだ道は映像の世界だった。最初の作品は「What is ちまちょごり?」 (1995年NHK・BS) だ。
1994年、朝鮮学校の女子生徒が登下校中に制服を切られる事件が各地で相次いでいると朝鮮総連が発表した。前年に北朝鮮が日本海に向けて弾道ミサイル発射実験を行ったことへの反発が関連していると見られた。
「チマチョゴリ切り裂き事件」は注目されたものの、そもそも朝鮮学校と在日生徒に対する認知は低かった。ヤンさんは、チマチョゴリを制服として着る朝鮮学校生をテーマに、母校でもあり教員も務めた大阪朝鮮高校の女子生徒たちに、小型のビデオカメラを向けた。
生徒たちに語りかけながら、カメラのレンズを自分の目のようにして撮影するヤンさんの「主観撮影」の手法はとても新鮮だった。生徒たちは身内に撮られているようにリラックスしてヤンさんに応える。行き交うのは日本語と朝鮮語の「ちゃんぽん語」だ。それまでテレビで映し出されたことのない朝鮮学校の内側。このヤンさんによる一人称形式のドキュメンタリーは、「NHKには絶対に撮れない」と高い評価を得た。
※この手法を駆使したのが後述する「ディア・ピョンヤン」と「愛しきソナ」、そして新作の「スープとイデオロギー」である。
関連記事 「日本の中の北朝鮮」描くヤン ヨンヒ監督は人生賭けて映画撮る「越境人」