2021
06.16

【手記】ミャンマーで拘束されたジャーナリストが見た、監獄の過酷な現実

国際ニュースまとめ

<「フェイクニュース」を流した罪で収監された日本人記者が、政治犯たちと過ごしたインセイン刑務所での26日間> 自宅のドアをノックする音が激しくなり、意を決して開けると、「ポリス」という文字が目に入った――。4月18日、ミャンマー最大都市ヤンゴンの自宅にいた筆者は、突然家宅捜索を受けて逮捕された。フェイクニュースを流した罪というぬれ衣で、26日間にわたりインセイン刑務所に収監されることになった経験を紹介したい。 拘束されたのは午後7時半頃。私服の軍人に率いられた、警察官や入国管理局の職員ら7~8人が自宅にやって来て家宅捜索を始めた。何人かは防弾チョッキを着て、ライフルのような銃を持っていた。令状はおろか、何の捜査なのかの説明もない。そしてパソコンやカメラ、携帯電話、書類など段ボール2箱分を押収。筆者もそのまま連行された。 階段を下りてアパートの外に出ると、警察のトラックが止まっていた。私は両手を上げてゆっくり周囲のバルコニーを見渡し、自分が逮捕されていることが近隣住民に分かるようにアピールした。私が捕まったという情報が流れれば、誰かが支援に動いてくれるだろう。そう考えての行動だったが、そのとおり1時間もしないうちに「日本の記者が逮捕された」という情報がインターネットを駆けめぐったと、釈放後に聞いた。 インセイン刑務所に着くと、すぐに取り調べが始まった。筆者は日本大使館員と弁護士を呼ぶことを要求し、それまでは調書にサインしないと宣言した。取調官は困り、上官を呼んだ。やって来た上官は到着するや否や机を拳でドンとたたき、「外国人がこの国で好き勝手にできると思うな。俺はおまえを刑務所に送ることができるんだぞ」と叫んだ。 政治犯たちが証言する軍施設での拷問 こうした荒々しい取り調べはあったものの、肉体的な暴力や拷問を受けることはなかった。しかし、筆者が会った多くの政治犯たちいわく、収監される前に軍の施設に数日から2週間にわたって収容され、そこで厳しい尋問や拷問を受けていた。 典型的なのは目隠しをされ、後ろ手に手錠をかけられ、コンクリートの床に素足でひざまずかされるパターンだ。その体勢で尋問され、答えが気に食わなければ棒で殴られる。 尋問は2~3日間休みなく続けられ、寝る間も与えられず、気絶すれば殴られて起こされる。トイレに行かせてもらえないので、ある政治犯は失禁してしまい、それを理由にまた殴られたと話していた。取り調べる軍人はしばしば酒を飲んでいたという。 ===== 抵抗の印として3本指を掲げて軍事政権へ抗議する若者たち(6月3日、ヤンゴン) REUTERS 筆者が収容されたのは、長さ4メートル、幅2.5メートルほどの独房だ。イギリス植民地時代に建てられたレンガ造りで、壁にはアリの大群が巣くっていた。部屋には穴が開いただけのトイレと、すのこのような木製のベッドがあるだけ。飲み水として蒸留水のタンク、トイレの後の処理用としてたらいが用意されていた。 食事は1日3回。白飯を皿によそい、その上からカレーやおかずをかける。ナスやカボチャのカレー、冬瓜や豆のスープ、空心菜の炒め物などが定番メニューだった。刑務所暮らしでは食事が数少ない楽しみなので、口に入るものは何でもおいしく感じた。 苦しんだのは、独房の中での精神状態だ。収監後しばらくは屋外に出られる機会が少なかった。ネガティブな考えが浮かんでも、気分を転換できない。仲間は捕まっていないだろうか、押収物に大事なビデオは入っているか、など不安がよぎって止まらなかった。筋トレなど運動をして前向きな気持ちを保とうとした。 灼熱のミャンマーの暑さも厳しかった。収監されていた時期はミャンマーでも最も暑い季節に当たり、最高気温が40度を超えることも少なくない。レンガが日中の太陽光を浴びて熱くなり、夜でも蒸し暑さが続いた。暑さに参った筆者は、日に4回も5回も水浴びをしていた。 VIP扱いの政治犯たち 収容された独房のある建物にはVIP扱いの政治犯が収容されており、筆者のほか多い時で10人がいた。国民民主連盟(NLD)政権時代の閣僚、著名民主活動家、人気俳優、大物ジャーナリストらだ。 政治犯は、互いに助け合いながら監獄の日々を過ごしていた。拘束されてすぐ、ほかの政治犯から、せっけんやインスタントコーヒーや菓子などが届いた。独房の外に出られる自由時間に直接手渡すこともあれば、看守ら独房の間を行き来できる人に託して届けられることもある。 筆者はTシャツとジーンズだけで連行されたので、ほかに服がなかった。それを知った政治犯の1人は、Tシャツを届けてくれた。筆者も、友人や大使館から差し入れが届くようになってからは彼らの思いに報いようと、レトルトカレーなどを熱湯で温め、ほかの政治犯に配っていた。 政治犯たちは常に国の将来のことを考えていた。裁判で弁護士と会う機会などを利用して、外部のニュースを聞いては、それを政治犯仲間でシェアして、現在の情勢はどうなっているのか、どうしたらクーデターを終わらせることができるのかを議論していた。 ===== 筆者の刑務所生活は、突如終わりを告げた。5月13日、刑務所の幹部から「君は明日、日本に帰ることになった。10分で荷物をまとめるように」と告げられた。理由の説明はなく、あれよあれよという間に刑務所を出て留置所に一泊。翌日空港で日本大使館の職員に筆者の身柄は引き渡された。 約1カ月の収監を経て釈放されてみると、日本から見るミャンマーの情勢は様変わりしていた。日本では「街は表面的に平穏を取り戻した」などと報道されているが、ヤンゴンの友人からはこの1カ月の間に国境地帯で少数民族武装勢力から軍事訓練を受け、来るべき内戦の日に備えているという連絡を受けた。 筆者は、自分に続いてほかの政治犯が釈放されることを望んでいたが、実際にはそうなっていない。6月11日の市民団体の報告では、クーデター後に逮捕された4800人以上の政治犯がいまだに収監され、国軍の鎮圧などによる死者も860人に上っている。市民の抵抗はやまないだろう。 多くの市民も収監中の政治犯もクーデターを認める気はなく、今後も抵抗を続ける覚悟だ。一方で国軍側も妥協する様子は見られない。その結果が、さらなる流血につながらないように祈りたい。

Source:Newsweek
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