2021
06.16

ワクチン接種で先行した国々に学ぶ国家戦略の重要性と、先行国が見据える未来

国際ニュースまとめ

<争奪戦の勝負は1年前に決まっていた──。コロナ後に向けて前進する優等生国家の出口戦略> イギリスのオックスフォード郊外にあるカサム・スタジアムは、地元サッカークラブの本拠地。試合のある日は、数千人のサポーターでにぎわっていた。 しかし新型コロナウイルスのパンデミック(世界的大流行)が起きてからは、押し寄せる人々ががらりと変わった。毎週最大1万人の市民がスタジアムのゲートをくぐるが、サッカーを見るわけではない。近くのオックスフォード大学の研究室でアストラゼネカ社と共同開発されたワクチンの接種を受けているのだ。 新しい観衆もサポーターに負けないくらい熱狂的だ。昨年12月に始まった市のワクチン接種は、市民も驚くほど効率よく運営されている。 「信じられなかった」と、美術史家のイザベラ・フォーブスは言う。「行列はないし、書類の記入もほとんど必要ない。ボランティアやスタッフはとても明るい顔をしていて、私も誇らしい気持ちになった」 同じ誇りをイギリス全土が感じている。賢明な意思決定と従順な国民のおかげで、イギリスは今や先進国でもごく少数の優等生だ。つまり、国民の半数以上がワクチン接種を受けている。5月下旬で接種率(少なくとも1回接種)は56%に達した。 イギリスのワクチン戦略の成功は3回にわたる厳格なロックダウン(都市封鎖)と、新型コロナ関連の死者がヨーロッパで最多の15万人超を記録したこの国の悲惨な経験の痛みを和らげている。 EUはイギリスに大きく後れを取っている ヨーロッパの隣人たちが羨むのも無理はない。EUは全27加盟国のワクチンを確保するため指揮を執っているが、煩雑な官僚主義のせいもあり、イギリスに大きく後れを取っている。最近はスピードアップしているものの、5月下旬の接種率(少なくとも1回)はドイツが41%、イタリアが36%、フランスが35%。G7でイギリスの数字に迫る国はアメリカ(49%)だけだ。 さらに、イギリスでは感染率と死亡率が急速に低下している。第2波がピークに達した今年1月、ウイルスは1日で1800人以上の命を奪った。しかし、5月に入ると5人を下回る日も出てきた。新聞には患者が一人もいなくなった新型コロナ用の救急病棟の写真が掲載され、通常の生活が少しずつ戻り始めている。 5月17日からは国内の大部分の地域で、愛する人を抱き締め、レストランで食事をし、パブで酒を飲むことができるようになった。ボリス・ジョンソン英首相が言うとおり、「慎重に、しかし不可逆的に」封鎖が解かれていくと期待できそうだ。(編集部注:ジョンソン首相は6月14日、変異株の拡大による感染拡大を受けて封鎖解除を1カ月延期すると発表) もっとも、世界のトップランナーの栄誉は、イギリスではなくイスラエルのものだ。イスラエルのワクチン接種は、開始当初は1日に人口の2%が受けるという猛烈な勢いで展開され、既に62%超の人が少なくとも1回目を済ませている。 ===== イギリスでは規制措置が緩和され、パブでの飲酒も解禁 DAN KITWOOD/GETTY IMAGES ベンヤミン・ネタニヤフ首相は、「コロナウイルスから最初に解放された国」を実現したと主張。世界中の国がイスラエルからワクチン戦略のヒントを得ようとしている。 イギリスとイスラエルはどのようにして、世界を牽引する存在になったのか。最初のカギは、ワクチン調達の機敏性だ。 イギリスは昨年4月に、バイオテクノロジー分野の投資経験が豊富なベンチャーキャピタリストを中心とするワクチン戦略のタスクフォースを立ち上げた。勝ちが見込めるなら未知の選択肢も辞さないという賭けは、見事に成功した。イギリスは昨年末までにアストラゼネカ、モデルナ、ファイザーなど大手製薬会社と契約を結び、ワクチンの開発段階から、安定した供給をいち早く確保した。まだ未承認の2つのワクチンも、数百万回分を注文している。 同じように重要なのは、国民の賛同だ。イギリスでは国民保健サービス(NHS)の信頼性が高いことと、マスメディアや、党派に関係なく政治家がワクチン接種を支持しているおかげで、「反ワクチン」の問題はほとんど起きていない。「イギリスの人々は信じられないほど従順だ。大きなリスクを理解し、それに合わせて行動している」と、ロンドン大学衛生・熱帯医学大学院の疫学者ジョン・エドマンズ教授は言う。 ほかにもワクチン接種のアクセスの良さ(人口の98%が接種会場から約15キロ圏内に住んでいる)や、集中管理された医療システムなどを考えると、7月末までに全ての成人に少なくとも1回の接種を済ませるという目標も達成できそうだ。 ワクチンのリスクも冷静に判断 確かに、イギリスでも貧困層や一部のマイノリティーグループ(特に黒人コミュニティー)に比べ、富裕層の接種率が高い。しかし一方で、例えばアメリカは、4月の世論調査で成人の約4人に1人が積極的に接種したくないと答えている。 「アメリカには、連邦政府からのあらゆる指示を敵視する人が一定数いる。トランプ前政権下で新型コロナが政治問題化され軽視されたことが、それを助長している」と、米カリフォルニア州のワクチン接種センターでボランティア活動をしている弁護士のジョン・デリックは言う。「リバタリアン(自由至上主義者)的な理由でマスクを嫌がった多くの人が、ワクチンを打ちたくないと思っている」 ワクチンの深刻な副作用が報じられても、イギリスの人々の信頼はほとんど揺るがない。アストラゼネカ製ワクチンの接種が、命に関わる血栓の発生にごくわずかながら有意な関連性があるという調査結果が発表されると、多くの国でワクチン接種に対する信頼が急激に低下した。 しかしイギリスでは、新型コロナに感染した場合の危険性は、ワクチン接種がもたらす危険性よりはるかに高いという公式見解を、人々が前向きに受け入れている。NHSは血栓症の素因がある人にはアストラゼネカ以外のワクチンを勧めるよう、指針を更新しただけだ。 ===== こうした態度は冷静で明確なメッセージを発し、堅実路線を維持する賢明さを証明しているとの声も、専門家の間では上がる。 「EU諸国の中には、アストラゼネカ製ワクチンの流通を停止し、数日後に再開するような2度のUターンをした国もあった」と、英スターリング大学行動科学センターのデービッド・カマーフォード上級講師は指摘する。「イギリスは針路を修正しただけ。規制当局がタクシー運転手だとしたら、より安心してハンドルを任せられるのはどちらだろう?」 イギリスとイスラエルの類似点は、すぐに見いだせる。「感染者ゼロを目指したオーストラリアや中国と違い、ワクチン接種が出口戦略であるべきだと、私たちは早々に気付いた」と、ワクチン接種についてイスラエル政府に助言するバルイラン大学のシリル・コーエン教授は言う。 イギリスと同様、出だしは悪かった。増え続ける死者数(累計約6400人)をめぐって、イスラエル政府は度重なる非難にさらされてきた。 カギは医療制度への信頼 救いの手になったのが、画期的な取引だ。イスラエル政府はワクチン供給と引き換えに、全国民約930万人を網羅する貴重な医療データベースへのアクセスを提供するとファイザーに提案した。 まさにウィン・ウィンの取引だ。合意によって、イスラエルは大量のワクチンを確保。同国の被接種者の医療情報を手にするファイザーは、一国全体を自社製品の実験場兼広告塔として利用するチャンスを得た。 匿名化されているとはいえ、医療データを外国企業に渡すのだから、プライバシー保護への懸念があったのは確かだ。それでも安全保障意識が高く、政府への個人情報提供に対する抵抗感が薄いイスラエルでは、これは支払う価値のある代償だった。 さらにイスラエルでも、当局は少数派コミュニティーの警戒感の解消に努めてきた。少なくとも初めのうち、多くの超正統派ユダヤ教徒やアラブ系市民は接種に消極的で、ワクチンが不妊症などの原因になりかねないという噂が疑念に拍車を掛けた。 不安解消に大きく貢献したのが、地域社会で尊敬される人物などを起用した周知活動だ。「イスラエル人は非常に現実的だ」と、コーエンは言う。「ワクチンを受けても、しっぽや耳が生えたりはしないと分かった途端、接種に積極的になった」 評価の高い医療制度が成功のカギになっているのもイギリスと同じだ。イスラエルでは、健康保険や医療サービスを担う4つの「健康維持機構」のどれかに加入することが義務付けられている。全国民に担当医師がいて、個別化した医療が受けられる先進国でもまれな制度だ。 接種を忘れたら、医師から電話がかかってくるのは確実と思っていい。「高度の信頼感が存在する」と、テルアビブ大学医学部公衆衛生学科危機管理・災害医療部門を率いるブルリア・アディニは語る。「新型コロナのワクチン接種も、いつもの予防接種と同じように受けられる」 ===== もちろん、イギリスとイスラエルの戦術はそれぞれだ。 ワクチン忌避派を呼び込む手段として、イスラエルは主に「グリーンパス」を活用する。2回接種を完了すれば取得できる一種のデジタルパスポートで、パスの提示者だけがバーやクラブ、映画館などに入れる。 「多くの若者や中年層は自分のリスクは高くないと考え、接種にあまり関心がなかった」と、アディニは言う。「グリーンパスは、1年にわたって無縁だった娯楽や社交を楽しむチャンスの象徴になった」 イギリスは接種回数をめぐって大半の国と一線を画し、感染予防効果が低くなるリスクを覚悟で、できる限り広範囲にワクチンを行き渡らせる戦略を取ってきた。 英政府は今年1月、ワクチンの1回目と2回目の接種間隔を当初の計画よりずっと長い12週間に設定し、まずはより多くの人に行き渡らせる方針を採用。疑問視する向きは多かったが、この決定が人々の死を防いだとの研究結果が今では出ている。5月上旬に発表されたデータによれば、アストラゼネカのワクチンを1回接種すれば、新型コロナによる死亡リスクは80%低下するという。 イギリスとイスラエルを結ぶのは、ワクチン接種推進の成功がもたらし始めた経済的見返りだ。 経済の常態復帰にも成功 商業活動が常態に向かうなか、イギリスのGDP伸び率(昨年はG7で最低のマイナス9.9%)は今年、アメリカを上回る7.8%に達すると、米金融大手ゴールドマン・サックスは予測する。エコノミストが特に注視しているのが、消費機会が限られたせいで、この1年間に推定1800億ポンドをため込んできた富裕な消費者層の動向だ。 一方、イスラエル経済は新型コロナ以前のレベルに回復しつつあり、イスラエル銀行(中央銀行)はGDP成長率の6.3%増を見込む。 今や真の危機は気の緩みだ。悲観論者はチリを例に、今後を危ぶむ。 チリのワクチン接種率(少なくとも1回)は50%を超えたが、感染拡大が止まらない。原因としては、感染力がより高いブラジル変異株の流入や国内移動の増加のほか、有効性の低い中国製ワクチンを1回接種しただけで誤った安心感を抱いたり、ソーシャルディスタンスへの意識が薄れていることが指摘されている。 既存のワクチンはこれまでのところ、程度に差はあれ、主要な変異株にも効果を示している。とはいえ英政府は5月5日、変異株を対象とした新型ワクチンの早期開発に向け、試験施設の体制強化に約3000万ポンドを投じると発表した。 「私たちは謙虚でなければ。次に何が起きるか、決して予測できないというのが新型コロナの教訓だ」と、バルイラン大学のコーエンは言う。確かに。それでもイギリスとイスラエルには、胸を張る資格がある。

Source:Newsweek
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